情死

情死に対しては之を厳禁するの方針を取り、亨保七年、情死を主材とした戯曲読物を禁じ情死を仕損じたる物は、先づ三日間曝しものにし、ついで非人に下し、また死亡した者は野外へ裸体として放棄し、同じく曝しものにした。しかし此の法度は年を経ると共に弛廃し、非人に下したる情死の仕損じ者を、親族から非人頭に金を出して良民にする風を生じ、之を足洗ひと称した。儒医井上金峨の『病間長語』に這般の消息を伝へて、『今の制には男女共にそのまゝで乞食に下すばかりなり、有司は公に知り玉はざらん、その夜の中に金を出して乞食の手より●へば、また以前の素人となりて夫婦となるといへり』とある。又遺骸を曝し者にする法度も遂に全廃せられた。『南水漫游拾遺』に、『寛政五年二月十九日、阪町にて心中あり、男女の死骸を千日前の墓所に曝せし処、陰門の毛多き評判にて見物夥しく、その後、心中のさらし物止む』とある。これは大阪のことであるが、江戸でも同様の事情があって、遺骸をさらすのを止めるやうになつたのであらう。