三(江戸時代の風俗が次第に頽廃して)

江戸時代の風俗が次第に頽廃して質実剛健たる気象の衰ふるに至ったのは、第三代将軍家光の治世以来のことで、即ち弓矢は全く袋に収り天下泰平を謳歌する時代に移つてからは、世は享楽の世界と化して、花柳狭斜の巷は年と共に繁昌を増し、従つて黴毒も大に勢を得て、猛威を逞しうすること益々甚だしくなるに至つた。既に万治の頃には、傾城遊女の色にうかれて病毒を受け、激烈の病症を発生して、不具廃疾の身となつたものが既に沢山あつたことは、浅田了意の『東海道名所記』の島原の條下にも『唐瘡をかきいだして、之を防がんがため、軽粉、大風子なんど、あらけなき薬をのみて、瘡毒うちに責めては筋ちぎれ、骨くじけ、かなつんぼうになりつゝ、長き患ひをまねくもあり、これは薄々人々傾城ぐるひのことなり。至って厚き御身上の御かたは、いかゞ侍べらん、申しがたし』とあるのでも分る。それから延宝九年の『両吟一日千句』の中に『通ひ馴れて夜の契りは茶々むちやに横町くるひうつる唐瘡』とあるなども、病毒伝播の起源が今や花柳の巷に移つたことを明かに語つてゐる。慶長時代から寛永の頃までは、主に女歌舞伎の女優によつて伝播した病毒も、女歌舞伎の禁止以来は、公娼私娼を介して世に益々汎く蔓延することゝなつた。されば貞享年代に入つては、病毒の伝播者たる公娼も、却つて遊客に有毒者の多くなつたのに避易したと見え『かさかき無用』と吉原五十四君の末にある定め書きの中に明記した程で、また以て如何に黴毒を患ふる者の甚だしく多くなつたかを推知し得られる。それより元禄宝永の時代に入つては、良家の婦女にも病毒を有する者が沢山に出来たと見え、『瘡病の煩ひある女は去る。』と『風流日本荘子』にも記するやうになり、黴毒有する女は離縁の条件の一となった。

享保十年加賀の医官不波元澄が明末の陳九韶の『黴瘡秘録』を翻刻して世に頒布したのは、思ふに黴毒の猖獗を極める処から、その診断治療の要訣を一般医家に知らしめんとの篤学心と老婆心とに出でたことであらうが、併し風俗の頽廃と花柳の巷の繁昌とは年を逐うて益々甚だしくなったがため、宝暦の頃からは笠森稲荷が瘡守稲荷となり、黴毒の予防治療を祈願する者の日に絶えないやうな状況となつたのを見ると、病毒猖獗の有勢が想像に余りある。而して天明時代に近づくに至っては、愈々その蔓延の度が激烈となり、『黴瘡口訣』に記する所に依れば、京、大阪、江戸、肥前、長崎等の如き都会繁華の地には、十人中八九人は黴毒を病むが如き状態となつた。橘南谿の『雑病記聞』中にも黴毒蔓延(惨状を記して『今時に上王侯より下庶人に至る迄之を憂へて種々の変症を起てもの十に七八なり。』とある。

以上考証した処を約言すれば、我国の黴毒は最初疏球人及び倭寇の徒によつて永正年代に九州地方に輸入され、次第に他国に拡がつたが、其の後天文時代以来、葡人の来航に伴うて層一層病毒の伝播せられるに至り、更に慶長年代の頃から勃興した女歌舞伎の女優はその蔓延の媒介をなしたこと著しく、寛永時代に至つて女歌舞伎が禁止せられて以来は、公娼及び種々の私娼を介して益々蔓延し、万治、元禄から宝永に入つて愈々猖獗となり、天明時代に至ってその極項に達したのである。