二(葡萄牙人の始めて我国に来たのは)

葡萄牙人の始めて我国に来たのは、既に黴毒の我国に発現した永正年代に遅れること約三十年以十を経過した天文十二年(西暦千五百四十三年)の頃であつた。それは史上に於て何人も知悉するが如く、葡萄牙の船が薩南の種子が島に漂着したことである。それより以来、天主教の布教のため、また貿易交市のために我国の九州に渡来する葡人が年と共に加はるやうになつたが、『日本西教史』にも記したが如く、葡萄牙の商人の中には放蕩無頼の徒も少くなかつたから、此等の輩によつて病毒の伝播せられたことは想像するに難からざる処である。而して天文二十三年(西暦千五百五十四年)、天主教の布教僧ヌゲの門下なる葡萄牙の富商ニルイー・アルメーダが、日本の産物を購はんとて印度から持ち来つた五千金を投じて、大友宗麟の領地なる以後の府内に救済院を二ヶ所に設立し、一は世人から見離された『癩病』患者を収容し、一は薄命の幼児を収容施療して、始めて欧州の医術を我国に施したが、その救済院に収容した『癩病』患者の中に、黴毒患者の混じてゐたことは蓋し疑ふべくも無く、当時葡人の渡来に伴うて黴毒伝播の甚だしくなつたがため、アルメーグをして之を救療する病院の設立を企画せしめるに至つたことゝ思はれる。而して啻に九州地方のみならず、遙かに畿内に至る迄、黴毒の年を逐うて蔓延するに至つたことは、天正五年(千五百五十七年)、葡萄牙の宣教師が織田信長の許可を得て、京洛の南蛮寺を設立し、多数の病者を救療した中に、黴毒患者と認むべき者の多かつた事実に徴しても分る。『南蛮寺興廃記』『切支丹実記』等に『癩病を煩ひ』或は『瘡を患ひ』などゝ記したものゝ大部分は、いづれも黴毒患者と認むべき者である。蓋し真の癩病ならば到底治癒すべき筈がないのに、それが悉く平癒したのであるから、黴毒と認めても敢て差支無い。

上記の如く葡人の来航する者多くなるに伴うて、我国に蔓延する事愈々顕著となつた黴毒は、更に文禄元年西班牙との交通、慶長五年和蘭との交通によつて、此等の欧人から直接間接に病毒を受けた者のために層一層伝播の度を逓加したことであらう。而して茲に私共の看過する能はざることは、慶長年代の頃から勃興した女歌舞伎の俳優によつて、士庶の間に黴毒の蔓延を大に助成したことゝ思はれる事実である。されば之に就いて少しく左に叙説したい。

抑々女歌舞伎が出雲のお国によつて興されたことは周知の事実であるが、併しその最初は幼稚なる念仏踊りで、僧形で念仏を称へ乍ら踊つたやうな抹香臭い宗教的芸術に過ぎなかつた。それが始めて世に演ぜられたのは慶長年代の初期であつたが、名古尾山三郎がお国の一座に加入してからは其の芸風が一変し、女が男装し、刀を佩して舞ふやうになり、荼屋の女と戯れる男子の真似などして好色的のものに進み、更に猿楽から思ひついた滑稽趣味をも混じ、女優以外に男優をも加へるやうになつた。併し矢張り女優が中心となつて妖艶なる嬌技を演じたから、殺伐なる戦国時代の風のなほ吹きやまぬ慶長頃の人々は、狂せんばかりに女歌舞伎を歓迎し、京洛の人気は実に沸き立たん許りであつた。されば侯伯大夫の中にも其の色に迷つた者も尠く無い。女歌舞伎の開祖お国は固より売笑婦では無かつたが、その一座の女優や、またお国歌舞伎の大に当つたのを見て之に傚つた遊女出身の女優は、売笑を副業とした。当時の女優の主なるものはお国を始め、佐渡島正吉、村山左辺、岡本織部、北野小太夫等で、此等は座頭株であるが、その部下には幾多の女優があつて、此の如き幾組の女歌舞伎は京都のみならず、諸国へ下つて到る所に歓迎され、宴席の招きにも応ずれば、肉をも売る売笑兼業者であつた。慶長十二年、三十七歳の壮齢で薨去した結城秀康の如きは、女歌舞伎に親眤して黴毒に罹り、それが原因で世を辞したのであつた。

女歌舞伎が如何に甚だしき害毒を世に流したかは、林羅山が『出雲国淫婦九二者、始為レ之、列国郡鄙皆習レ之、其風愈盛愈乱、不可勝数挙、聞国入干淫坊酒肆之中』と慨したことや、また『京童』に『此所にても戯はれ女の舞ひしに、みな六根をなやまし、心を六塵に溶かし、宝をなげうち、あるは父母の養をかへりみず、あるは子持ちが吝気をも厭はず、くる日もこぬ日も心はこゝに置きて、かたちはくらの銭箱をたゝく。限りある宝に盡きなき戯れを好み、親をしのび、妻をはかれども、あこぎが浦に引く網の目もしげゝればあらはるゝ云々。』とあるを見ても明かである。此の如く女歌舞伎が流行して、甚だしく害毒を流したことを思へば、之によつて黴毒蔓延の甚だしくなつたことも容易に想察される。殊に寛永年代に至つて、女歌舞伎が益々盛んに行はれ、上方から陸続として伎女が東下し、非常に風俗を乱した結果は、遂に寛永六年に至つて、女舞、女浄瑠璃の類と共に厳禁せられるに至つた。是に由つて之を見れば、慶長頃から寛永にかけて黴毒が著しく全国に蔓延したことも思ひやられる。殊に寛永頃から江戸の都下に黴毒の猖獗を極めるやうになつたのも、女歌舞伎の媒介に因ることが大に関与したに相違ない。