一(世界の三大疫病の一たる黴毒が)

世界の三大疫病の一たる黴毒が始めて我が国に侵入したのは、今を去ること実に四百十余年前の昔、世は刈菰と打乱れて群雌四方に割拠し、攻城野戦に槍先の功名を争つて到る所に屍山血河を築いた宝町戦国時代の永正年代の頃であつた。それは『本朝医談』の中に引証した京都の竹田秀慶の著『月海録』の中に『永正九年、壬申、人民多有レ瘡、似二浸淫瘡一、是膿疱●花之類、治レ之以二浸淫瘡之楽一(中略)謂二之唐瘡、琉球瘡一』とあるに徴して明かで、之より以前の旧記録には黴毒に関する記事は見当らないから、永正九年に機内に黴毒が発現し、而して当時之を唐瘡、琉球瘡と称したことから考へれば、本病が支那及び琉球方面から我国に輸入せられたことが明白であり、従つて当時支那、琉球との交通の要地であつた西国方面に初めて病毒が侵入し、それから次第に機内に波及したことに想ひ到れば、黴毒の我国に輸入されたのは蓋し永正九年から以前のことに相違ない。而して永正五年、阪浄運の著『続添鴻室秘要抄』を見るに、痲病及び其の他の花柳病に関する記事はあるけれども、黴毒に就いては何等記載する処が無いのを見ると、黴毒は恐らくは永正五年以後に我国に伝来したことゝ推定して可なりである。然らば如何にして琉球及び支那方面から伝来したのであるか。

抑々琉球に於ては尚真王の治世なる西暦千四百六十五年乃至千五百二十六年、即ち我国の長禄六年から大永六年に至る迄の間は、外国との交通貿易の最も隆盛を極めた時代であつて、当時活気旺盛商才溌剌であつた琉球の商人は船舶を海上に浮べて、遠くマラツカに至る迄も交市貿易をなしたものであり、また当時我国の武士にして国内に志を得ざる浮浪の徒が八幡船に乗り、八幡大菩薩と大書した旗を海風に翻しつゝ支那の沿岸を劫掠し、支那人から『倭寇』と称せられて非常に畏怖せられたことは、史上周知の事実である。而して琉球の商船は葡萄牙人が千五百九年始めてマラッカに到つた当時にも既に此の地に往来したことは明かであるから、琉球の商人が葡人から病毒を感受した機会のあつたことは容易に想像され得るのみならず、現に沖縄に於て黴毒を俗に『なばる』(南蛮瘡)と称することに考へても、彼等が直接に葡人若しくは葡人から感染した南洋人から病毒を受け、之を我が国の九州方面に齎らしたことは殆ど疑ふべくも無い。蓋し当時、琉球の商船は南に台湾、南支那の沿岸、マラツカ等と交通し、北は我が国九州の諸港、有馬、天草、博多等と絶えず往来してゐたから、琉球の商人船夫によつて病毒が九州の港津に直輸入されたことは容易に考察し得られる。また倭寇が既に明時代の初期から南支那の要港たる広東地方を侵掠したことは顕著なる事実である故、明時代の弘治、正徳との間(一五〇六年─一五一一年)の頃、既に黴毒の広東に発生し、猖獗を極めたこと明かなる以上は、当時南支那沿岸を侵掠した倭寇が、直接に支那人から病毒を受けて我国に伝へたこともまた疑ひない処である。況んや『月海録』の如き旧記録に、黴毒のことを琉球瘡、唐瘡と称したのに徴しても、我国に於ける最初の黴毒が琉球及び支那方面から直接に入り込んだことは愈々明かで即ち琉球人の最初感染した病毒は直接に葡萄牙人(若しくは之から感染した南洋土人)から受けたものであり、倭冦の徒によって始めて我国に輸入された最初の黴毒は、彼等が広東人から受けた『唐瘡』であつた。

支那に於て始めて黴毒の発現したのは倹約斉の『続医説』に依れば、明時代の弘治(一四八八年―一五〇五年)の末であると記し、李時珍の『本草網目』には弘治と正徳との間(一五〇六年─一五一一年)とにてある。其の起源に就いては、土肥慶蔵氏の考証に依るに、葡萄牙人の当時占領したマラツカに迄出稼ぎした支那商人が葡人から病毒に感染して之を広東に伝へたのが、抑々支那に於ける黴毒の始めであつて、それから揚子江沿岸に沿ひ支那の全国に普及するに至つたのである。『続医説』に『長間患二悪瘡一、自二広東人一始、呼為二広瘡一』とあるを見ても、支那に於ける黴毒の起源地の広東たることが明かである。

是を要するに、今を去ること四百余年前なる永正年代に当り始めて我国に発現した黴毒は、一は当時マラツカに在つた葡萄牙人から病毒を受けた琉球人により、一は同じくマラツカの葡人に接触した支那人の病毒を伝播した広東方面に於て、之を受け取つた倭寇の徒によつて我国の九州に直輸入されたもので、即ち直接間接に葡人から伝へられた病毒が我国に侵入したのである。