苦悶と性的興奮

病的人間には、異常意外の原因事情によつて性欲の興奮を来し、且つ之を満足する者も尠く無いが、其の中にも特に奇異なる現象は、恐怖、苦悶等の如き精神感動が、往々著しい性的快感及び興奮を伴発することである。此の如きは固より病的に知覚過敏となつた者に於て、往々認められる変態性欲的事実であつて、キユルルは主に神経衰弱症に罹つた男女両性に於て、重劇なる苦悶恐怖を感ずる際、または宗教的色彩を帯びた良心的苦悶を覚える場合に、性的快感を来し、或は手淫を試むが如き者あることを実験した。またエリスの記する処に依れば、或る一婦人は其の父の葬式の際、物悲しくも棺前に祈祷した僧侶に対して、恋愛心が起つて結婚したしと主張し、また或る医師は厳格なる気質にも拘はらず、式に列する時は強度の性的興奮を来すがため、親戚の葬儀にも列することを避けたと云ふやうな事実がある。またシユリツヒテグロルは葬式、悲劇、死刑、殉死の光景等が特に婦人に愉快なる感覚を与へることを説いた。蓋し此等は苦悶によつて性的快感の起る例証であるが、殊に興味のあるのは、エリスに下記の如き自己の体験と感想とを報告した一男子の書信である。

生後六ヶ月なる私の愛児が永眠した時、私は悲しさの余り甚だしく号泣し、一二日間は何物をも食することが出来なかつた。最後に愛児の遺骸に接吻した時などは、極度の苦悩に陥つた程であつた。然るに其の夜私は意外にも甚だしく発情した。私は実に恥恥の念に堪へなかつたが、併しそれは苦悩に侵された脳の中枢から、性の中枢に刺激が伝達した結果であらうと信ずる云々。

されど上記の事実よりも更に一層吾人の注目を惹くのは、一寡婦エフエヅスが亡夫の墓に詣でゝ、心の限り泣き悲しみ悶えた間もなく、その家の番をしてゐた一兵卒と恋に落ちたと云ふ物語である。

上述の如き事実はまた往々小児にも見ることがある。モルは其の著『小児の性生活』に於て、十三歳及び十四歳の少女が、苦悶の感に襲はれる侮に性的快感を催うして、陰部より粘液を流出したこと、また学童の中には不勉強のため、教師に叱責せられる苦悶から、性的快感が誘発せられて射精する者のあることを記述した。フロイドもまた学童に於て、試験前の苦悶が性的興奮を喚起し、手淫或は夢精様機転を誘発せしめることを説いた。

然るに他の一面に於ては、肉体的苦悶からも性的興奮が発起することが必ずしも稀でない。其の中にも特に茲に記述するの要あるは、他より頸部を絞扼せられ、窒息状態に瀕する苦悶によつて、著しく性的興奮を来す者があることである。縊死者に於ては殆ど毎常陰茎が勃起し、且つ射精を来すものであるが、併しこれは血液循環の停滞及び全身痙攣に伴ふ処の現象であつて、縊首のために性的快感が起ることが無いのは、蘇生者の告白によつて誰も認めてゐる処である。然るに頸部の絞扼のために、往々著しく発情するが如き者のあるのは、畢竟相手の異性のために苦筋を与へられ、苦悶を感ずることによつて、性的興奮を来す処の「マソヒズムス」的現象の一種と看做すべきものである。されば女性の中には其の愛人より自己の頸部を絞扼せられることによつて、快然を覚える者も尠く無い。エリスの記述した一婦人の如きは、毫も性交の快を感ぜず、ただ異性から其の頸部を圧迫せられて、始めて性的快感を惹起するが如き性欲倒錯者であつた。『千一夜譚』Tansend und eine Nacht にも、美少年を瞥見する毎に、直ちに之に近づいて抱擁せんと欲し、自己の呼吸の閉塞したことを感ずる婦人のあつたことが叙述されてあるが、思ふに相手の異性の手によつて頸部を絞扼せられ、窒息状態に瀕する苦悶を味ふことは、性欲の倒錯した者に取つて、特殊の快感を催起し、著しい性的興奮が喚発せられるに違ひない。ベルナルド・ド・キロスが記述した一男子の如きは、青楼に登ると娼婦をして其の背後に立たしめ、襟飾を強く後方に索引せしめて、殆ど窒息状態に陥つて了ふことが何よりの快感であつて、斯うしなければ少しも其の性欲を満足することが出来なかつた。

さりながらまた自ら頸部を圧迫絞扼して、性的快感を催起する者もある。フルフレツド・ハースが『小児に於ける仮面性手淫に就いて』し題してミユンヘン医事週報に公にした論文 Hass,Ueber larvierte Onanie im kindesalter. Munch. med. Woch. Nr. 31. 1922 に記載した一実例の如きは、蓋し其の好例の一である。それは精神病的体質なる十二歳の少女であつて、屡々自分の両手を以て頸部を圧迫し、喉頭を外部より絞扼する。その際脈拍は平素の七十六拍より百十一拍までに亢進し、呼吸は促迫し、顔面は発赤し、瞳孔は散大し、次いで全身帯青赤色となり、呼吸は喘鳴を伴ひ、眠瞼は下垂する。頸部を絞約してゐる時間は、二十乃至四十秒であつて、それが終ると全身は弛緩し、頭部を一側に傾けて、二三分間其の儘の状態になつてゐることもあれば、睡眠することもある。ハースは之を以て自ら苦悶を求めて快感を惹起せしめる一種の性的行為、即ち『仮面性手淫』であると看做した。