二(漢土に於ては、半陰陽を)

漢土に於ては、半陰陽を『人痾』或は『二形』或は『半月』といひ、我国に於ては『はにわり』『ふたなり』といふ。『病名彙解』に『本卓綱目に云ふ。体男女を兼ぬるを俗に二形と名づく(中略)その類三あり、男にして即ち女、女にして即ち男なるものあり、半月は陽、半月は陰なるものあり、妻なるべくして夫たるべからざるものあり』といひ、『倭名類聚抄』には『内典云、五種不男、其曰二半月一、俗訛云、波爾和利、謂二其体而不一レ男一月三十日、其陰十五日為レ女、名二半月一也』とあり、『箋註倭名類聚抄』に之を註釈して『按、五種不男、見二法華経女楽行品一、記云、五種不男、生劇妬、変レ半也、半謂三半月一、半月列在二第五一、此所引葢是、叉四分律云、黄門者、妬黄門、変黄門、半月黄門、半月黄門者一、半月能男、半不レ能レ男、云々』とあり、『和漢三方図会』に『五雜俎云、晋恵帝時、京洛有レ人、兼二男女体一、亦能両用二人道一者、今人謂二之半男女一(中略)一云、上半月為レ男、下半月為レ女、般若経職博之、又半擇迦是也』とある。

是に由つて之を見れば、半陰陽を『半月』といふのは一ヶ月の上半期は男となり、下半期は女となると云ふ伝説に基いたもので、邦語で半陰陽を『はにわり』といふのは漢語の『半月』の訛言であるらしく『類聚名義抄』に『半月、はりわり』と記し、『伊呂波字類抄』にも『半月、はにわり、十五日為レ男、十五日為レ女之様也』とある。而してこの『半月』といふ語の出処は仏典であるがまた一に『黄門』といふ名もある。

我国に於ても半陰陽のことは古くから知られてゐたもので、平安朝時代に出でた『類聚三代格』の中に『国不放之人、債員之人、黄門、奴婢之類云々』とあって、黄門を挙げてある。(黄門は仏典に記せる半陰陽の名)、また寂蓮法師詞書と伝へらるゝ『異疾草紙』に『都に鼓を首にかけて路次歩く男あり。形は男なれども女の姿に似たることどもありけり。人これをおぼつかながりて、夜寝入りたるに密かに衣をあげて見れば、男女の根共にありけり。これ二形のものなり。』とある。