近世時代に於て再び去勢宗の起つたのは、十八世肥の中葉頃で、その開祖は露露国の熱心なる基督教徒コンドラチー・スセリワノツフと云ひ、其の宗派を称して「スコプツェン」派 Sekte der Skopzen と云ふのである。露国政府は幾度も之を禁圧したに拘はらず、宗徒は次第に増加して露国及び羅馬尼には多数の宗徒を見るやうになつた。彼等は自ら称して『白き鳩』 Weisse Tauben といひ、睾丸を摘除する者もあれば、陰茎をも断つ者もおり、また女子に於ては乳房及び小陰唇を截り取り、また卵巣をも摘除する者さへある、而してこの「スコプツエン」派の信徒の仲間入りをする者のある場合には、必ずや多数の信徒が相集つて聖餐式を挙げることになつてゐる。其の儀式は頗る残忍を極めたもので、男子ならば、多くの信者の面前に於て其の陰部を切断せられ、儀式に列した信者は、その切断された陰部を皿に盛つて喰ひ尽し、女子ならば乳房や陰唇を切り取つて同じく皿に盛り一同が之を食するのである。而して食後には狂気じみた舞踊が初まり、それが何時しか躁乱となつて儀式を終るのである。
去勢には四種の別がある。一は真正の去勢、「ヱヒテー、カストラチー」Echte Kastratiで、両側の睾丸及び陰茎を除去せるもの、二は「スパドネス」Spadonesといひ、たゞ睾丸のみを除去したもので、最も屡々世に認められる。三は「トリビエー」Thlibiaeといひ、睾丸を去らずして之を挫滅せしめたもの、四は「トラシエー」 Thlasineといひ、単に輸精管を切断したものである。其の中にも睾丸と共に陰茎をも取り去つたものは、情事を行ふこと能はず、また性欲も沈衰する結果、他の方面に快楽を求めるやうになる。シュラーデルの記した処に依れば、「スコプツエン」派信徒の多数は両替業を営み金儲けを楽みにして甚だ貪欲であるさうである。(Mann und Weib, Bandle.)
近世の基督教は去勢を行ふことを罪悪と認めてゐるが、併し前記の如く原始基督教に於ては之を容認してゐたので、その流れを汲める希臘教の信者中には「スコプツエン」派の如きものを開き、方今に於ても東欧地方には可なり多くの信徒がある。之がため欧洲の医学者は、此の如き者に就いて去勢に基因する身体上の変化を精細に研究するの機会と便宜とを得る事が出来たのである。
吾国には支那の如くに宮刑の行はれたこと無く、また宗教的迷信より去勢を行つた者も無い。
但し僧侶にして、女犯の罪を犯した者に対しては、その陰茎を截り取つたことがあつた。それは法然上人の門弟なる佳蓮、安楽が念仏に事寄せ貴賤の女子及び人妻を姦したので、後鳥羽院の逆鱗に触れ搦め捕はれて切羅(陰茎切断)の刑に処せられたことである。『皇帝紀抄』に『近日件門弟等充二満世間一、寄二事於念仏一、密二通貴賤並人妻、可レ然人々女一、不レ拘二制法一、日新之間、搦二取上人等一、或被二切羅一或被二禁其身一云々』とある。