去勢 Kastrationとは睾丸を除去することである。支那に於ては夙に太古時代より行はれたもので、恐らくは有史以前五千余年前より、三苗及び東夷西夷に行はれた蛮俗に起源せるものである。その証拠は『尚書の呂刑』に『苗民、制以レ刑、惟作二五虐之刑一、曰レ法、殺二戮無辜一、始淫為一、劓、刵、掉、黥一』と見え(掉は即ち去勢のこと)また『周礼』の秋官同刑の註に『今東夷西夷以二墨劓一、為レ俗、宮者、大夫則割二其勢一」とあるを見ても明かで、要するに有史以前に於ける支那蛮族の風習であつたのが、漢民族に伝はり、犯人に対する刑罰に応用することになつて死刑に次ぐの重刑となすに至つた。漢時代に屡々行はれた『宮刑』といふのが即ち是れである。その目的は犯罪者を廃人にするにあるので、無論今日の遺伝法則のことなぞは夢にも知らなかつたのであるが、悪人の種を断絶する希望から冥々裡に行ふことになつたものらしく思はれる蓋し悪人を絶つには、第一、死刑、第二は宮刑(去勢)を以て最も有効とするから、従つて去勢が死刑に次いで重刑と看做された所以も容易に理解される。さりながら血族を重んじ貴族を貴び名門を尚ぶ支那に於ては、貴族に限つて子孫を絶つべき宮刑を加へず『公族無二宮刑一』を定めた。而して宮刑は唐時代に至つて廃止になつたが、併し之より遙か以前より后宮の官女間に斡旋する廷臣には、去勢者所謂宦官を用ゆる規定になり、且つ宦官が朝廷内に勢力を得て政治を私するほどの権威を占むるに至つたがため、最早や去勢者を排斥せず、却つて之を羨むやうな状態に立ち至つた結果、自然に宮刑の刑罰たるの効能を失ひ、遂に廃止に帰したのであらうと思はれる。
之を要するに、支那では最初去勢を以て五刑の一とし、死刑に次ぐ重刑としてゐたが、后宮三千の美姫を擁する皇帝や大官等は、その宮廷に去勢せる男子を置くの便宜あるを感じ、之を採用すること多くなつたがため、民間には其の需要に応ずべく児童時代より去勢して宦官を志願するやうな傾向となり去勢者を多く出だすが如き結果となつた。此の如き習俗は啻に支那ばかりで無く、古代のバビロンにも行はれ、去勢の男子に婦人を掌らしめたが、此の東洋の異俗は遂に羅馬にも侵入するやうになつた。