七(江戸ばかりでなく、京阪其他の地にも湯女、風呂屋女があった)

江戸ばかりでなく、京阪其他の地にも湯女、風呂屋女があった。有馬の湯女は前に述べて置いたが、大阪にては島の内に売笑婦を置く風呂屋があった。但し江戸に於けるが如くに浴場のみを斡旋する湯女と売色専門の風呂屋女との区別はなく、湯女が即ち売笑婦であって、それを垢すり女或は猿とも呼んだ。猿とは垢をかくとの意である。また酒落れて呂州とも云った。『摂陽見聞筆拍子』には延宝の頃、大阪の市中に垢すり女のゐた風呂屋が十四軒あったことを記してあるが、元禄の頃の島の内には柳風呂、額風呂等といふ風呂屋があって私娼の巣窟であった。戯曲に名高い『三勝半七』の三勝も島の内の湯女であり、又『心中天の綱島』の女主人公小春の前身も湯女であった。『好色訓蒙図彙』に浴衣を着た湯女が湯の上り場で浴客の髪を梳る図を掲げ、その風俗を記して『風呂屋ものは煤竹玉子色の木綿衣裳に黒半襟、鼈甲のさし櫛、褄たかく袖寛かに、しやんとして物言ふとも風俗やかましく烟管手を放たず、酒ぶり節分に豆をまくやうにて、投げ節調子高く、世継曽我に道行知らぬはなし』とある。

『年々随筆』巻六『今大阪島の内の娼家は某屋とは云はで其風呂と云ふ。桜風呂。常盤風呂といふ類ひなり。湯女の名残りてはあれど、浴すべき風呂無し』とあるに依れば、文化二年の頃には島の内では最早や浴場の設けのない名ばかりの風呂屋になって了ったが、併しなほ風呂を以ってその家号として私娼を置いてゐたことが分かる。京都に於ては姉が小路に和泉風呂といふのがあり、又祇園町にも風呂屋女の盛んであったことは『梨花咄』に記してあるが、天保以後京阪に風呂屋の路を絶ったことは『守貞漫稿』の記事に徴して明かである。

最後に私は湯屋風呂屋が売笑屋を兼ぬる事になった事情に就て少しく考察したい。『年々随筆』に記する処に依ると室町時代の応安の頃の記録は、各家にては浴室を設け、人を饗応するには先づ入浴せしめ、浴後に酒をすゝめる風習であったことが記るされてゐるが、此風は引きつゞいて行はれたものらしく慶長以後にも盛んに行はれて、我も人も風呂と称して酒を饗する慣ひであった処から、市中に風呂屋と称して酒を飲ます家が出来、客は先づ風呂に入り、浴後酒を飲むことゝなったとある。酒に女は附き物であるから風呂屋が酒の相手に風呂屋女を置くやうになったのは蓋し自然の成行であってそれが売色をも兼ねるやうになった結果、湯屋風呂屋が私娼窟の如き状態になったのである。