しかし江戸に於て風呂屋が売笑婦を置いたのは、寛永年代の頃から始つたらしい。三浦浄心の著そゞろ物語に『今は町毎に湯屋あり、湯女といひて艶めける女共二十人、三十人ならび居りて垢をかき髪をそゝぐ。さてその外に容色類ひなき心さま優しき女ども、湯よ薬よといひて持ち来り戯むれ、浮世語りをなす。一度笑めば百の媚をなし男の心を迷はす』とあって、風呂屋には浴客の垢をかく湯女の他に売色を専門とする女即ち所謂風呂屋女のあつたことを明かにしてゐる。ところが『そゞる物語』は三浦浄心が慶長十九年以来その見聞した事柄を次第に書きとめたものであるから『今は町毎に風呂あり』と書いてあっても慶長元和の頃から湯女風呂屋女置く風呂屋が俄かに出来たものとは、断定し難い、仍て『異本洞房語園』を読むに、『寛永十三年の頃より町中に風呂屋といふものを発興して遊女を抱へ置き、昼夜の商売をしたり』とあるから、風呂屋に売笑婦を置くやうになったのは寛永時代の中頃から起ったことゝ認めねばならぬ。思ふにその原因は当時まで大に流行した女歌舞伎が風紀紊乱の廉で禁止せられたがため、その代りとして利を射るに敏なる風呂屋が美人の売笑婦を置き客を惹きよせる様になったので、その中にも丹前風呂の如きは勝山といへる風呂屋女を抱へ、歌舞伎を演ぜしめて大に人気を博したといふから、風呂屋女が女歌舞伎に代り当時の人心に投じて盛況を極めるやうになったことが分かる。女歌舞伎の禁ぜられたのは寛永六年であるが、これより七年の後には既に風呂屋女なるものが多数にあらはれて女歌舞伎以上に風俗を害するに至ったのである。
幕府は風呂屋女の弊害を認めて慶安元年風呂屋営業を禁止したが、その効果がなかったので、之を撲滅するよりもその増加を制限するの急務なるを覚つたと見え、同四年には風呂屋看板の売買を禁じ、更に承応元年には風呂屋は一軒に限ること、他出を許さゞること、風呂屋仲間女を融通してはならぬことを命じたが、これもその効果はなく却て、益々風呂屋女が流行するので、明暦三年幕府は意を決して江戸町内に散在せる二百余軒の風呂屋を破潰し、その抱への女を吉原に収容せしめた。かくして江戸町の風呂屋女は、さながら火の消えたやうに亡びて了ったが、併し根本的に消滅した訳ではない。文化七年版の『飛鳥川』に『わけて元両国若松町和泉屋といふ銭湯、近所の中にも宜しといふ。二階に煎じ荼出すは何ごとぞや』とあるが、是に由て見ると、文化年代の頃から湯屋風呂屋に二階を設けて売笑婦を置き始めたことが推知される。所謂湯屋の二階といふのが明治十二三年頃まで東京にあつて二三人の女を抱へ置いてるたことは今なほ記憶する人も尠くは無からう。