五(男女の混浴の他に、浴場が性的風紀を紊乱せしめたことは)

男女の混浴の他に、浴場が性的風紀を紊乱せしめたことは江戸時代に最も甚しかった。湯屋には湯女、風呂屋には風呂女といふ売笑婦があって入浴者の世話をなすと共に肉を売ったものである。そもそも湯女は有馬の温泉場から起ったもので、即ち平安朝時代の、末葉なる建久二年に仁西上人が有馬温泉を再興し、その地に十二の坊舎を設け、諸国より入浴しにくる浴客を宿泊せしむることゝしたが、各坊舎には湯女二人を置いて、浴客の世話をさせたのが即ち湯女の起源である。その最初は高位高官の貴紳の浴坊に滞在する徒然と無聊とを慰めるに置かれたものらしい。それは『有馬温泉誌』に湯女の有様を記して『白衣紅袴の装束をなし歯を染め、眉を描きて、恰も上臈の如き姿をなし、専ら高位の公卿の澡浴せられるゝ前後、休憩の折に当り、座に侍りて或は碁を囲み或は琴を弾き、又に和歌を詠じ、今様をうたひなどして徒然を慰むるを業とするなりければ、なみなみの者には為し得べくもあらず、且つ土地の産土神の下に生れしものならでは湯女となることを得ざりとなり』とあるを見ても明かで、恰も江戸時代に大名の相手になった吉原の花魁が錦繍の美衣に綺羅の袿を襲ね、和歌、俳諧、囲碁、茶、琴等種々の遊芸に通じてゐたのと同様、最初有馬温泉の浴坊に置かれた湯女も専ら高位の官人の相手となったがため前記の如き官女紛ひの服装をなし且つ種々の芸能を教へこまれたので、言はゞ高級の売笑婦であるのであるが、然るに後世に至って多数の庶民も有馬の地に来浴するやうになってからは、湯女の服装や品格も民衆的になったのは当然の成行である。江戸時代に於ては西沢李叟の『綺語文章』中にある『有馬温泉の記』を見るに、湯女は『鉄漿をつけ、前帯にして、朝は八つ時までを小湯女、その後は大場女が浴場の時刻を客に知らせ、浴衣を持って案内し、衣服下駄をあづかり、番をして侍女の如く』とある。(小湯女とは年の若いもの、大湯女とは年の長じたもの)『守貞漫稿』に『時には三絃をひき、小唄などうたひて酒席の興を添ふれども遊女売のことは無く、唯だ浴事を客に告ぐるを専らとするのみ』と記してあるが、果して然うであったかは明かでない。『似我蜂物語』に有馬薬師の戸扉に書きかけるとあって『有馬山猪名のさゝ原いなと言はじ、一夜ばかりの契りなりとせば』といふ和歌もあり又『好色っれく』にも『風俗、しなゝど善き女は極って三箇の色町にも限らず当世にも有馬のふぢ、伊香保の江洲などありといへり』ともあるから有馬の湯女にも美貌のものがあって、それが色を売つたこと想像するに難くない。

江戸時代の初期たる慶長年代の頃から既に湯屋風呂屋は一種の売笑屋の如き状態を呈してゐたらしい。慶長十七年片桐且元が兵庫町の夙の者に与へた文書に依ると、湯屋及び風呂屋中よりは各二季に料足二百文を夙の者に遣はすべき旨を記してある。これは湯屋風呂屋が遊女屋と同じく特に夙の者に毎年祝儀をつかはす例になつてゐたことを証するので、矢張りその営業が売笑を兼ねてゐる関係上、夙の者の厄介になった場合の多かったがためであらうと推測される。