しかるに『銭湯来歴』には『慶安の頃までには男女共に洗湯に行くに、別々に裸を持ち来りて之に締めかへて湯に入るり上る時は下盥にて洗ひ清めて持ちかへる。之を湯もじと云ふ』。とあり又た『嬉游笑覧』にも『男女共に前陰をあらはして湯に入ることは元々無かりしことにて、必ず下帯をかきそへて湯に入る故、湯具といふ。女詞にては湯もじと云ふべし』とあって、湯に入るにも褌をつけたやうに記述してあるが、これは必ず間違ひであって、風呂のことを混同してゐるのである。単に沐浴するばかりの湯屋に入るものが裸をつけたとは考へられない。
江戸昨代の中期までは湯屋と風呂屋とを区別したもので、例之ば寛永の法令には銭湯銭風呂と書き分け、承応年代の法令にも『町中湯屋風呂屋云々』と区別してゐる。しかるに後世に至って風呂屋の力が湯屋に圧倒され、湯屋のみが専ら行はるゝやうになった結果、褌をつけずに真つ裸のまゝ入浴する風が一般となった。江戸は寛政の頃まで大阪は天保の頃まで男女浴槽の区別なく混浴したものであるから褌をつけずに真つ裸となりて混浴する男女間に猥褻行為の演ぜられ浴場の風義の著るしく乱れたことは固より言ふ迄もない。そのため男女混浴の禁止の令が下った。『守貞漫稿』に『江戸も先年は男女混浴にて槽をわけず。松平越中守老職の時より別槽の官命ありしなり。然らば寛政以来混浴禁止となる』といひ『又京阪とも男女ともに従来男女入り込みと云ひて湯槽を分たず、一槽に浴することなりしを天保府命後、男槽女槽を分つ』とある。
しかるに猶はこの禁を犯す湯屋があるので、更に天保十二年男女の混浴を厳禁したのであるが、徹底的に行はれなかったので、時々戒告を加へた。しかし明治の初期に入ってもなほ混浴の風が廃絶しなかったので、明治五年四月、各府県の布令で『男女入り込み洗湯不相成事』となり、次で同年十一月に公布された違式条例には湯屋渡世のもので男女を混浴せしめたものは、罰金を追徴される規定となり、その後湯屋取締規則が発布されて、男女の混浴を禁じたが、今日実施されてゐるのは明治三十三年五月内務省令営業湯場の風紀取締で『客の来集を目的とする浴場に於ては十二歳以上の男女をして混浴せしむるを得ず。之に違背したる営業者は二十五円以下の罰金に処す』と規定されてある、しかるに今日に於ては此の禁令をくゞつて男女混浴が公然の秘密に行はれてゐる浴場がある。摂津の宝塚及び堺にある『家族温泉』『特別湯』の如きが即ちそれである。