江戸に風呂屋の出来たのは天正十九年の頃で、市人は物珍らしげに押し寄せたとあるから、この頃までは江戸には共同浴湯の設けがなかったらしい。『そゞろ物語』に見しは、「昔江戸繁昌の初め、天正十九年卯年の夏かとよ、伊勢与市といひしもの、銭瓶橋のほとりに銭湯風呂を一つ立つる、風呂錬は永楽一銭也、人皆珍らしきもの哉とて入り給ひぬ。されどもその頃は風呂不鍛錬の人あまたあって、あらあつの湯のしづくや、息がつまり物も言はれず、煙にて眼も明かれぬなどゝいひて、風呂の口に立ち塞りぬる」とあるから、蒸気浴即ち蒸し風呂であったことが分かる。さて風呂屋が江戸にて次第に繁昌し、その数も増加するやうになってきたが、併し風呂屋と云つても、その中には純粋の蒸気浴でなく、湯浴を兼ねた者も多かった。『醍睡笑』に『いづれも同じことなるに、常にたくをば風呂と云ひ、あけの戸なきを石榴風呂とは何ぞや。かゞみいるとの心なり』と記し、普通の風呂と石榴風呂とを区別してゐる、この点に就て左に少しく述べてみやう。
抑々風呂とは既述の如く閉鎖せる室内に火を焚き水を注いで水蒸気を発生せしめ之に浴するの謂ひであるが、併し之を営業として浴客を悲きよせるやうになってからは、八瀬の竈風呂の如くに一度毎に火を焚いて水を注ぐやうでは、入りにくる浴客の間に合はないのみか極めて不経済であるから、四方板囲ひの湯槽に水を湛へて之を沸かし、水蒸気を外に漏れないやうにしてその湯の中に浴すると共に蒸気にも蒸される設備にして、つまり湯屋兼風呂屋といふ仕組に改めたものらしい。その中には湯槽の入口の処に引き違ひの戸を設け、湯槽の中に這入る前に戸を閉鎖すれば全く戸棚の中に締めこまれた形になって蒸気に浴すると共に湯に浸ることも出来る装置の者もあった。前掲『醍睡笑』に記せる『常にたく風呂』とあるのは、湯槽の入口に引き違ひの戸の設けのあるものを指し、石榴風呂とあるのは此の戸の設けがなく、湯槽の前の大部分が廂板に掩はれて、その下をくゞつて湯槽内に入る設備にしたものであらう。そして此様な風呂を石榴風呂と称したのは、『骨董集』に説明してあるが如く、身体を屈しないことには湯槽の入口を出入せられない様になってゐるがため屈み入るといふことを『鏡鑄』るにもぢったので、昔は鏡を磨くには石榴の実の醋を用ひたから、酒落れて石榴風呂と称したのである。江戸の銭湯に石榴口といふ名目のあるのは石榴風呂の名残であらう。『好色一代男』の中に兵庫の風呂屋の挿図があるが、これを見ると、湯槽の入口は極めて狭く、浴客は匍匐して出入りする様に書かれてある。これは水蒸気を成るべく浴室内に立て籠らせ、湯浴に兼ねて蒸気浴をさせる仕組みで、斯う云ふ風な設備をしたものが所謂風呂屋なる者であったのであらう。
是を要するに、風呂と云っても、八瀬の竈風呂のやうな原始的の蒸気浴では無く、湯槽の四方を板囲ひにして沸いた湯より発散する水蒸気を外部に漏れないやうにした者が普通に呼ばれた風呂であって、その中にも湯槽の入口の所に引き違ひの戸を設け、湯の中に入ってから之を閉ぢる仕組みにしたものもあれば、又た湯槽の前を大部分板にで掩ひ、その下をくゞつで入るやうにして成るべく蒸気を立てこもらせる仕組みにした者もあり、いづれも風呂と湯とを兼ねたものであったのである。是れ遂に湯屋が風呂屋と称せられ、風呂屋が湯屋といはれて両者の混同せらるゝに至った所以である。