今では風呂屋も湯屋も同じ者に思はれてゐるが、併し江戸時代の中期ごる迄は両者を判然区別したものであるり風呂とは所謂蒸気浴のこと、湯とは温浴の謂ひである。
私は先づ風呂屋の起源より説き起しで湯屋に及び、次で浴場に伴ふ猥浴を叙説してみやう。抑風呂の語原が「ふロ」(室)である事、即ち「ムロ」が転訛せられて「フロ」と呼ばれるやうになったと云ふことは民浴学者として有名なる柳田国男氏の考証によって明かであるから、風呂即ち蒸気浴は夙に上古時代より山間僻陬の土民間に行はれたことは推察するに難からざる処で、即ち天然の土窟或は人為的の土室内に火を焚いで水を注ぎ、水蒸気を発生せしめて之に浴したことゝ思はれる。近代に至る迄残つてゐた八瀬の竈風呂の如きはその好型であって、炭竈或は黒木竈の室を利用し或は之に類する土室を作りて其中に火を焚き、水を注いで蒸気浴をするのである。
風呂は一に風炉とも書かれ、これが各人の住宅内に設けられる様になったのは何時頃から起つたのであるか不明であるが、併し『後深心院関自記』応安六年十一月の条に『新院御所、自去比、被レ立二御風炉屋一今日上棟、明日可レ為二御風炉始一云々』とあるに徴すると、風呂(風炉)なる名称が既に南北朝時代より用ひられ、貴紳の邸宅に蒸気浴の装置をせる浴室の設けのあったことが分かる。それから『公名公記』の永享十一年十一月の条下に『晴入二風炉一』とあるのは自宅の浴場であるのか或は営業的の風呂屋であるのか分らないが、併し室町時代に於ては風呂を営業とせる浴場が京都の町にも出来、湯女を置くやうになったことは『太平記』延文五年の条に『湯屋風呂の女童までも云々』とあるに徴しても明かであるが既に永正年代の頃に至ては私人の営業に成る風呂屋が盛んになって卿相の入浴する者も多くなったことは、鷲尾隆家の『二水記』に『入風呂合木、人数十人許也』『早且入風呂合木、尚五六輩也』と記事によって知られる。併し風呂場の設備の如何なるものであつたかは明かでない。
此の如く蒸気浴の風呂屋が盛んになったと共に湯浴の湯屋も応永年代の頃には既に可なり多く出来たらしく、『看聞御記』応永二十九年十二月の『条下に藤井湯屋辺云々、唯一宇焼失、湯屋無為也』とあるによって知られる。降りて天文の頃に至ては『銭湯』といふ名も生じ、『蜷川親俊日記』天文十一年二月の条下に『博奕、銭湯、游船、夜行、遠狩』の五種が挙げてある。此の如く室町時代には湯屋と風呂屋との区別があって、温湯に浴する風と蒸気浴をする風とが相共に行はれてゐたのである。