仇し波、寄せては返へる浪、朝妻船の恥しや、あゝ又の日は誰に契りをかはして色を、ヽ、
枕恥かし、偽りがちなる我が床の山、よしそれとても世の中
元禄時代の浮世絵師英一蝶の作つた端唄で、此の文句の中にある『朝妻船』は近江国阪田郡入江村なる朝妻の里にありし娼婦の謂ひである。この端唄を自讃せる朝妻船の絵には烏帽子水干を着て前に鼓を置き手に末広の扇を持てる自拍子が船に乗つて居る姿を描いてあるが、併し『近世奇跡考』に依れば、これは一蝶が晩年に至て描いたもので、最初は唯小舟のうちに烏帽子、鼓など取りちらしたる様をかいてあるに過ぎなかつたと云ふ。果して朝妻船と呼ばれた娼婦が此様な扮装をしてるたか否かは分らないが、江戸時代の初期慶長の頃に至る迄、琵琶湖の航路中の一要津であつた朝妻の里に船饅頭とも云ふべき一種の娼婦があつたことは明白なる事実で、西行法師の『山家集』に『おぼつかな、伊吹おろしの風さきに、朝づま船は逢ひやしぬらん』と云ふ和歌のあるに徴すれば、鎌倉時代以前より朝妻船と称せられた游女のあつたことは確実であり、又は也足軒通勝が船中妓女と云へる題で、『このねぬる朝づま船の浅からぬ契りを誰に又かはすらん』と詠んだ歌から考へても朝妻の里には平安朝時代の摂津の江口、神崎等の要津に於けるが如く、扁舟に棹して旅人に肉を売りにくる水上売笑婦の住んでゐたことも明かである。
抑々朝妻の地は現今の米原駅に接し、美濃路及北海道への分岐点なる箕浦に近く、琵琶湖の要津の一で、東山、北陸両道と京都との交通上最も重要なる地域であつた。こう云ふ要津が水上売笑婦の巣窟となつたのは自然の数である。然るに江戸時代の初期に至て井伊氏が彦根城に居を占め、新たに米原港を開くやうになつてより、朝妻港は次第に圧倒せられ、遂にその地域が米原と長浜とに分割して吸収せられてさしもの要津も見る影も無きに至つたがため、朝妻船も亦た衰滅して了つたらしい。
山東京伝は『近世奇跡考』に英一蝶朝妻船の画を描き且つその端唄を作つた因由を記して『一蝶若かりし時、友なる人、都よりのつとにとて、也足軒通勝卿の船中妓女といふ題にて、『このねぬる朝づま船のあさからぬ契を誰に又かはすらん』と自ら詠したる短冊を得させしを喜びて秘蔵せしが、ある年近江の彦根にいたり、こゝかしこ名所見めぐりけるうちに、朝妻の古跡に目とゞまり、通勝卿の詠歌を思ひ出して懐旧のあまり、やがて彼の朝づま舟のかたをゑがき且つ朝妻舟の小唄を作りけるとなん』とある。
朝妻といふ濃艶の文字と之によつて惹起さるゝ情緒とが古代の歌人の感情を刺戟したがため朝妻の里は文学上に於て歌枕とせられ、その名は夙に世に能く知られてゐた。英一蝶が近江に游んで、朝妻の古跡を偲び、游女の絵を描いた上にそれに讃した端唄をも作つたと云ふことは如何にも芸術家たる彼の本色を発揮したものと謂はざるを得ない。思ふに水上売笑婦たる朝づま船に烏帽子水干を着せ、鼓をもたせて之を白拍子化したのも芸術的美化であらう。