近年神前結婚が盛んに行はるゝやうになったが、併しそれは千年万代の末までも偕老の契りを全ふすると云ふ誓約を神さまの前に行ふ儀式に外ならない。処が往古に於ては夫婦の縁は神の思し召によって結ばれるものと信ぜられ、夫となり妻となるのも皆神さまの御意志であるといふのが古代日本人の結婚観であった。所謂『縁は異なもの』『不思議の御縁』と昔から言ひ伝へてゐるのは要するに結婚を以て凡人の思議すべからざる神の御意志に由るものであると云ふ思想の現はれである。されば良縁を希ふ男女が神に祈り或は神卜に従ふ風習の行はれたことは理の当然であって、所謂縁結びの神の信仰は今日に至るも猶ほ民俗間に残ってゐる。出雲の柞築大社が古来縁結びの神として崇拝せられてゐるのは、京洛の出雲路の幸の神と混同された結果であって、本来の縁結びの神は、素戔嗚命と稲田姫とを祭れる出雲の八重垣神社である。この神社のことは平城天皇の大同年代に出でたと云はれてゐる『樋河上天淵記』に記載せられ、縁結びの神たる理由が記るされてゐるから余程古い神社であること、随ってこの神社に良縁を祈った風習が中古時代から行はれてゐたことが分かる。又鹿島神宮にては常陸帯といへる名の下に縁結びの卜婚が行はれ、結婚せんとする男女は各自その名を記した苧の帯を神前で巫に結ばせ、夫婦の縁を卜ったもので『広益俗流弁』に記する所に依れば『常陸志を考ふるに、常陸国の男女、常に鹿島の神を祭りて卜定の婚をなす。巫を媒とす。その日に及んで室女等二つの苧帯をこしらへ、一つには男の名を書き、一つには我が名を書きて神前に供ふ。この時巫ども来りて、いづれにても帯を取り結びて女共に渡すに、その結び合せたる帯の名、おのが心にかなひたる男なれば朝夕その帯を肩にかけて、さきの男のまかんことを思ふ。男その故を聞けば情を通じて夫婦となる。名づけて常陸帯の卜と云ふとあり』とある。『草芥和言集』にも、鹿島の神の前で男女が各自その名を書いた帯の末を禰宜に取り結ばせて夫婦となる由を記し、『塩尻』には此風習を以て往古婚を結ぶ時、神に占ってその縁を定める風習であると説明してゐる。
此の如く一方には神に良縁を祈願し、一方には神に占って良縁を定める風習が古来行はれてゐたのを観ても夫婦の縁が神の意志に因るもの、所謂『神事』と信ぜられてゐたことが明かである。斯う云ふ信仰が神祭の日に於ける性的解放の基調となったことは容易に肯定し得べき処である。
今日では風紀の取締が厳重になったがため全く廃絶して了ったが、明治初期時代の頃までは神社の祭りの夜に多数の男女が入り乱れて交歓するが如き風習が地方到る処に行はれてゐた。『八雲御抄』に天下の五奇祭の一として記るされた京洛の大原神社の雑魚寝の如きは世に有名なるものであるが、宇治の県神社の祭も神秘い祭礼と称せられ、祭夜には各地より参集せる男女は神社の境内に混集して歓楽を檀にしたものである。岩代国の長江村字湯野上の氏神祭には附近の男女が大勢集り氏神様のお取り持ちと称して乱交する。近江国の西大字村字熊野村にては、毎年一回氏神なる熊野権現の社殿で夜間燈火を滅し、幾群の男女をして暗中に模索せしめ、寄り合ったものを夫婦とする。暗中に探り合って出来る中であるから、美醜、老幼の分かる由もなく、思ひもかけぬ夫婦が出来ても一旦交歓した以上取り消すことの出来ない掟になってゐた。
此の如き性的解放の事実は他にも沢山ある。之を以て原始太古時代に行はれた乱婚即ち共同婚遺風と看做す者も尠く無いが、併し神社の祭礼の日に限って一時的自由性交の行はれたと云ふ事実の上から推定してみると、男女の縁を神の意志とする信仰が性的解放の民俗行事を生ぜしめたことゝ解すべきである。思ふにその最初は神社の祭礼の日に良縁を願ふ幾組の男女が集合して婚約したので即ち祭礼の日を機会として夫婦の契りを結ぶことは神の意志によって選ばれたる最も正しい最も幸福なる縁組と信ぜられてゐたのであったが、その後になって極端なる性的解放となり、乱婚同様の現象に変化したのではあるまいか。
我国に於ても中古時代までには、歌垣と称せられた乱婚的会合が行はれてゐた。それは春秋二季に都にては市に、田舎にては野山などに幾多の男女が集合して互に歌を唱和し、その際男子の方より意中の女を呼びかけて名乗りをし交歓した集会の謂ひで、常陸国では筑波山、肥前国では杵島山、摂津国では歌垣山などで行はれた。『万葉集』に筑波山に行はれし歌垣を詠んだ長歌を載せてあるが、その中に『人妻にわれも交らん、我が妻に人言問へ』とあるを見ると、歌垣なるものが慥いに乱婚の遺風なることが明かであり、又『この山をうしはく神のいさめぬ業ぞ』とあるに徴すれば、乱婚が太古時代に許された正当の風俗だといふ意味も窺はれる。乱婚より配偶婚に進化して夫婦制度の確立した時代に入ても、原始生活時代に行はれた乱婚の慣習が猶は全く消失せずして一定の季節に一時的に行はるゝ今日の未開蛮族にも認められる処であるが、我国に於ても上古昨代より平安朝時代にかけて歌垣といふ一時的乱婚が春秋の季節に行はれ太古時代の乱婚生活に一時還元したのであった。儒教思想の普及して男女の別といふことが喧かましく唱へられるやうになってからは都近傍では歌垣に対する禁令が屡々出でたが、しかしその幾度も出でたことは一面に於て上古時代よりの乱婚の遺風の容易に廃れなかったことを物語るもので、近世時代に入って地方に行はれ出した、盆踊は実に歌垣の名残である。
歌垣の遺風は近年に至る迄も猶ほ東北地方に残り、羽後仙北郡内の一地方には陰暦正月十五日の夜、一定の場所に仮小屋を設け、幾多の若い男女がそこに集合して互ひに歌謠を唱へ終夜歓笑する風があり、又た伊豆の七島、就中、新島にては近年まで侮年旧盆の日には何人の男女を問はず乱婚が許され、幾群の男女が浜辺に集って歓楽を擅にし、日中といへども不問に附せられたといひ、又三河国の額田郡山中村大字池金では、毎年春季になると未婚の男女が盛装して山に登り終日遊びくらして夫婦の契約をした風習があり、大和の十津川には村内の妻子奴婢を選ばず、また旅人に至るまで男女の寝所を同うする雑魚寝の風習が行はれた。
此の如く近年に至る迄も各地方に於て無差別な白由交会の行はれ太古時代に於ける乱婚の遺風が依然として去らなかったから、神社の祭礼の日に諸国より多数の男女の集り来ることが好機会となって、そこに一時的乱婚の行はれたのは固より自然の数と謂はなければならない。しかし前記の如く男女の縁は神によりて結ばれると云ふ信仰も行はれてゐたのであるから、氏神や産土神の祭礼の際にはこの信仰が基調となって多数の男女が社内に来集し、知るも知らぬも雑魚寝するやうな風習も起つてきたことゝ解せられる。さらぬだに乱婚が地方に依然として行はれてゐたがため祭礼の日に於ける性的解放も何の造作もなく行はれたのである。