抑々元禄時代の前後までは上方が文化の中心となってゐた。優長で上品なのは上方の特長であり、丸顔のふっくらした肉つきの好い女は温かい感情に富んだ温和優婉な容貌として上方趣味に適してゐたので、此種の女性が美人型として愛好されたのである。江戸に住んでゐた菱川師宜でさへその描いた美人の相貌は全く上方式でその多くは下膨れのした丸顔であった。しかるに享保以来、上方の文化は次第に衰へて、その中心が江戸に移り、天明より化政時代に至ては、江戸の文化が中心となった結果、粹と意気とを尚ぶ江戸市民が仇っぽい凄味のある面長の痩せ形の女性を好く趣味好尚が自然に一般を風靡して、此種の類型の女性でなければ美人と看做されないやうになった。上方式の温かな柔か味のある丸顔は張りと意気地とを賞美する江戸情調に適しない。粹と意気で鳴らした深川や堀の芸者で美人の名のあつたらのはいづれも豊国式、歌麿式の仇っぽい女性であった。江戸の文化の移った享保時代の末頃に栄えた奥村政信の美人画より顔貌の輪廓の少しく長くなってきたのは、要するに上方趣味の次第に廃れて江戸趣味に移ったことが浮世絵の上にも顕はれた象徴であった。天明から化攻に至るに従ひ、細長い仇っぽい凄味のある容貌が鮮明に描写されて江戸趣味を遺憾なく発揮するやうになった。
以上は時代趣味の影響に就て述べたものであるが、此の他に演劇に於ける女形の容貌が、女性美に及ぼした影響を閑却してはならない。我国の演劇は江戸時代の初期たる慶長時代に於て出雲のお国なる女優より起り、その当時は別に女形と称する特別の男優とては無かったのであるが、風俗上の顧慮から女歌舞伎の廃止せられ、若衆歌舞伎、乃至野郎歌舞伎になってより始めて男子にして女性に扮する女形なる男優が出づることになった。しかし、元禄時代前後の頃までは男優が女性に扮しても未だ女の鬘を冦らず、その没趣味なる野郎頭を掩ふて優美の趣を添へんがために、紫縮緬を頭に載いてゐた。所謂野郎帽子と云ふのがそれである。当時は鬘や附け髪は幕府の禁ずる処であったから、女形俳優は野郎帽子を載き或は自己の頭髪を婦人の風に結んで舞台に現はれたのである。それ故、丸顔の、ふっくらとした自然の容貌のまゝで舞台に立ち、随って観衆も此様な顔貌を賞美してゐたのであるが、然るに時代好尚の進むにつれて鬘の製作せられ、次第に精巧を極めるやうになって、幕府も遂に之を黙許するに至り、又女形の外、男子に扮するものも鬘を用ゆるやうになった。今日の如き鬘の始めて出来たのは第二世瀬川菊之丞(王子路考)の頃からで、この女形は安永二年に死亡したから既に明和の頃より鬘を用ひたものであらう。この鬘のために前額が狭められ頬が殺げて丸顔も長く見える。その上に、女形も男子であるから普通の女性に比して身体の脂肪分は少く腰のまわりも細い。此様な男優が、美人に扮装して舞台にあらはれた嬌態艶姿は、花柳の巷に次で劇場を第二の享楽世界とした世人の眼を喜ばせ、肉づきの好い丸顔の大柄な女性は、何時しか排斥せられて、瓜実顔の痩せ形の女の方が美人の典型と目せられるやうになった。しかのみならず女形俳優の似顔が色彩のうるはしい浮世絵に画かれて世俗の歓迎を受けるやうになってからは益々女形の容姿に近い面長のすらりとした女性が美人視せられてきた。
此の如く世俗に持て囃された有名な女形俳優の舞台姿が実際的及理想的美人の標準となって在来の美人型を根柢より破壊し、果ては綺羅にも堪へぬ繊弱不健康の女性を美人視する傾向となつて了つたが、然るに明治時代に入ってよりは欧米の風習の輸入すると共に美人に対する好尚も一変して再び奈良朝平安朝時代に於けるが如くに脂肪分の濃厚な丸ポチャの女性が賞美せられ、美人の標準的類型も亦た千余年前の王朝時代に復古した。