美の標準は今古東西を通じて決して一様でないから、客観的対象は同一であつても、之を見る者の人種を異にし、時代を異にするに従つて或は美とし或は醜とするが如き不同がある。美感は、つまる所、時代なり民族なりの趣味好尚を代表する一つである故、全体を通じて美の標準を定めることの出来ないのは当然である。されば美人に於ても民族及時代の異ると共に亦その標準を異にし、例之ば印度にてけ身体の非常に肥満して恰も大道臼の如く、顔の円きこと盆の如く、眼の大なること皿の如き女が美人として持て囃され、支那に於ては顔丸く、額広く下顎尖りて三角形を帯び、脚小にして自身独りで歩行すること能はず、身体痩せて細長いものが美人の資格ありと称せられ、欧州にては全身の肉づき美しく、臀部突出し乳房緊張し顔貌の円きものが美人として認められてゐるやうなものである。併し各国の民族及各時代に於ける美人の標準理想を叙説することは姑く他日に譲り、こゝには単に我国に於ける美人の標準に対する思想の変遷に就てその概要を述べてみやうと思ふ。
奈良朝時代に於ける美人の絵画を見るに、いづれも豊賦円満の容姿で、即ち身体は脂肪分に富み、顔は丸味を帯びて所謂お多福型に近い処があり、当時の美人をモデルにして彫刻したものらしい吉祥天女の立像等を見ても同じく丸顔である。蓋し奈良朝時代は著るしく唐風の影響を受けてゐた時代であるから、随つて美人の標準も唐時代の美人に倣つたのであらう。京都附近で発掘せられた着色土偶の中にも唐の美に象つた美人像があつたとのことであるが、唐時代に於ける有名の美人として今尚ほ青史野乗にその名の高い楊貴妃の容姿が『唐書本伝』にも『大真資質豊艶』とあるが如く、肉附きのよく肥満してゐたことは、夏李の暑熱に弱つて玄宗皇帝と共に離山の温泉宮に浴したといふ史実に徴して明かである。されば唐風に心酔した奈良朝時代に於て唐国に於ける美人の標準たる豊賦円満の容姿をば美人の理想とした事は固より呶々する迄もないことで、前記の吉祥天女の立像を始め、正倉院に蔵せらるゝ樹下美人屏風図の美人や法隆寺の金堂内に安置せらるゝ女子の像なども、円顔豊頬の肉つき善き女性である。
しかのみならず、奈良朗時代の頃は吾が日本人も欧米人と同様に生き生きとした。血色の善い薔薇色を帯びた顔面美を愛賞した。それ故当時代の女性はその顔を薔薇色に見せんがために、赤色の染科を塗つて粉粧を施した。その染料は当時所謂『赤士』と称せられ、その種類には山より自然に出る赤土と丹砂もあつた。そして此の赤土を「はに」と呼んだ意味は、本居宜長の説に依るに、色美しく艶ふの意であつて光映土の義である。『万葉集』の和歌を見ると、愛人の顔貌を形容して『さにづらう妹』とか『くれなゐ匂ふ少女』とか『丹のほの面わ』とか云ふやうな詞があるが、これは、いづれも紅顔美に対する賛美の詞句である。