三(禁欲生活をなせる聖者善智識に於ても)

禁欲生活をなせる聖者善智識に於ても、その抑圧せる性欲は時として何等かの形の下に表現することがある。その実例として先づ第一に挙ぐべきものは、播磨書写山の性空上人は嘗て生身の普賢菩薩の姿を拝せんと欲し、七日間祈願をこめたが、満願の暁に至つて、その夢に『宝の遊女の長者を拝め。これぞ実の普賢菩薩なるぞ』との天啓を得、直ちに宝の遊廓に至つて『端厳柔和の生身の普賢、自象に乗れる』遊女の長者に接し、随喜の涙を流さんばかりに喜んだと云ふ説話が『撰集抄』に記されてある。また親鸞上人が肉食妻帯をなす前に当つて『吾れ玉女の身となりて犯されん』との仏告を得たと云ふことは『御伝抄』に記する処で、即ち六角堂の救世菩薩が、顔容端厳なる聖僧の形を示し、広大なる自蓮華の上に端坐し、親鸞に告命して宜く『行者宿報説二女犯一、我成二玉女身一被レ犯、一生之間能荘厳、臨終引導生二極楽一』とあつて、観音菩薩が玉女となり、上人に犯されんとの夢の御告げであつた。此の伝説を以て果して一の事実であるとせば、上人の抑圧した或は潜在した性欲の宗教的表現と認むべきものである。

欧州に於ても這般の実例が尠く無い。過去世紀間に尼院に流行した「ヒステリー」に於て、性的幻覚が主要なる関係を有したことは明白な事実であつた。尼層の抑圧した性欲は、『淫魔』 Incubusの幻覚を惹起し、悪魔が男性の形となつて現はれ、自己を冒涜することを幻感した。ヒンクレルは或る尼が淫魔に苦しめられ、遂に牧師の助けによつてその危害を免れたといふ一例を記述したことがある。また女性の形態となつて現はれる淫魔 Striga も、同じく聖者に幻覚されたことがある。聖ベネヂクトはその誘惑に打克たんがために、裸体のまゝ薔薇園の荊棘中に身を投じた。十七世紀時代の聖尼アンデスもまた性的幻覚に悩んだ一人である。彼女は勉めてその性的本能の衝動を抑圧して純潔なる生活を続けたが、併し夜間に至れば幻視幻聴を来し、唯か一人の男の忍び来るのを見たり、或は床の傍にその息を聞きその声を聞いたりした。時にはその幻に見ゆる男が彼女の被つた床の蒲団を引きめくることを感じた。彼女は終夜それに抵抗し、時には恐怖のあまり床から飛び出すことさへあつた。一夜その男は彼女の傍に来つて、自分の意に従はねばお前は世界で最も不幸な女になるぞと云つて彼女を挑んだ。しかし、彼女は自分の身体は神に捧げてあるといつて、極力それに抵抗したこともあつた。また、或夜などは一種の恐怖に打たれて、終夜戸外の雪の上に立つて一夜を明かすやうなこともあつた。しかし彼女は遂に基督との情交を想像することによつて、始めてその汚れた思想から免れ、純潔なる生活を維持することが出来たといふ。聖尼テレーゼもまた屡々性交を象徴した不思議の幻覚を有つてゐた。彼女は一日容色端麗なる天使が黄金作りの長槍を携へ、之を以て彼女の胸を突き刺したり引き抜いたりして、苦痛と共に最上の快楽を与へることを感じた。聖フクンチカもまた天使と肉的に交ることを幻覚した。僧尼が三昧即ち恍惚状態(エクスターゼ Ekstase)に陥る場合に屡々性的感情が起り、その極度に於て神或は基督との情交を幻覚することは実際上掩ふべからざる処で、宗教的「エクスターゼ」と性的「エクスターゼ」とはその間に密接の関係がある。所謂『法悦』なるものが如何にその感覚に於て性的快楽のそれに類同するかは、嘗て沼波瓊音氏が『俳味』誌上に掲載された「法悦」の記事に徴しても明かである。その一節に『マツクス・ノルグウは三昧に入れる者は性交の際に起ると同じ快味をおぼえ、また肉体に同じ現象を起す由を記せり。(中略)余の知る僧某、語つて曰く、我は法悦を経験せり肉悦も経験せり。我は法悦を肉悦より前に経験せり。さて後に始めて肉悦を経験するに及び、その感、その現象(体に起る)の全く法悦に同じきに驚き、慄然たりき。たゞその差とも云ふべきは、法悦の方が、肉悦の方よりも時間遥かに長きことなり。法悦は誠に大悦喜なり。大歓喜なり。而してその心持は正しく愛なり』とある。思ふに禁欲生活をなせる僧尼の中には、所謂法悦に入つて肉欲の代償を得て居る者も多からう。

性的感性と宗教的情熱とが、情の最も発動興奮し易き径時に於て、共通性を有つてゐることは既に前述べた通りで、一方の情の燃ゆる時には、また一方に於ても炎々として燃え上る。熱烈に敬虔に神に奉仕してゐる時、遺精する僧侶のあることや、礼拝中情熱に苦しむ婦人のあることはエリスの挙げた処である。されば宗教心は必ずしも性的本能を制克するものに非ずして、却つて之を昂めるやうな機会が多い。基督に対する愛が恰も異性間に於ける愛の如きものであることは、之を聖者の自伝等に徴しても明かであり、また彼の殉教者が惨酷なる迫害に堪へ忍び得られるのも、その根柢に於て性的快楽の伴ふに因ることの多いのは、私共の推測するに難からぬ処である。