二(宗教的感情の強くして性欲の微弱なものは)

宗教的感情の強くして性欲の微弱なものは、その本能を全く宗教信仰の方面に転化昇華せしめることは決して困難でなく、その性感は天上の愛によつて補償せられ、敬虔の生活を送ることが出来るが、之に反して性欲の強く若しくは宗教的感情の発育弱きものは、その性欲を昇華することは甚だ不完全であり、或は不可能であつて、肉欲感と宗教感とは相互ひに移行し、とても純潔敬虔なる宗教的生活に到達し得られない。フリードリツヒは這般の実例を多く挙げたが、その中には次のやうな尼僧があつた。それはゲヌアの聖カタリナといふ尼僧で、その宗教心は旺盛であり、その身持ちも厳粛であるに拘はらず、胸裡には絶えず情火の燃えてゐるがため、彼女は之を冷却せんとして故意に地上に横り、Liebe! Liebe! ich kann nicht meh と叫んだ。そしてその際には教父に特別の愛着を感ずるのが常であつた。或日、彼女は自身の手紙を鼻に触れた処が、身に染み渡る許りの一種の匂ひを感じた。彼女はそれを『天国の匂ひ』だと唱へて、之を吸ふと死ぬやうな心境がすると云つた。

聖者に関する伝説に徴するに、その中には宗教的感情と肉欲的欲情との結合したものが稀でない。殊に全く地上の愛を見棄てた尼僧に於ては、その愛人として基督に熱烈の愛情を抱き、しかも、その由を公言して憚らぬ者さへある。コーセーガルテンは聖尼アグネスに関する伝説の中に次の如き説話を記述した。彼女は美少年ルチウス・チーツスなる者に恋せられて、その胸の思ひを打明かされた時、直ちに之を拒絶して、美少年から送つた贈物の上に、天国にある愛人基督の壮美を詠じた詩を書して送り返した。しかも、その詩は肉欲感を基調とした情熱に漲つたものであつた。

熱烈敬虔なる基督教の信徒として世に知られてゐるツインツエンドルフ(十七世紀時代の人)の生活は、性的本能の衝動及び感情が、全く宗教の方面に転向された顕著の実例である。彼は少年時代から基督に対して燃ゆるが如き同性愛情を抱き、基督を以て自己の精神上の新郎といひ、またザヂスムス的傾向もあつて、基督の創傷を脳中に考へることによつて最高の快感をおぼえた。彼の行つた宗教的儀式、即ち同胞間の接吻、寝ず番、愛の馳走等は、いづれも基督をば彼の性的生活の対象とする情熱的要求から起つたものである。彼は異性に対する性本能を全然同性の基督にのみ振り向けたのである。これと揆を同じうせるものには、女性としてゴツトフリード・ケルケルの創作『ドロテアの花籠』 Dorotheas Blumenkorbenr に描かれたドロテアである。此の女は一時テオフイルスといふ男を愛してゐたが、しかしその恋の到底成就せざることを思つた時、その燃ゆるが如き愛をば基督に転じて、その失つた恋を補充し、之によつて大なる慰籍を得た。テオフイルスが再び彼女に近ついた時には、彼女は最早や此の男に対して露微塵の愛情をも有せず、ただ天にある新郎の素督が、如何に不死の美しさを以て彼女の来るのを持ちつゝあるか、いかに彼女に無窮の生命を与ふべく用意してゐるかを語るのみであつた。