一(性的感情と宗教的情緒とはその根本に於て異る)

性的感情と宗教的情緒とはその根本に於て異る処あるに拘はらず、その性質及び形式上に於て多くの共通性を有つてゐる。即ち性的感情も宗教的情緒も共に愛の対象を有し、之に一身を捧げて熱烈の愛情を表することは両者共に同一である。欧州に於て男女両性間に於ける愛情をば地上の愛 Irdische Liebe と云ひ、神に対する愛を天上の愛 Himmelische Liebe と称してゐる。此の如く両種の愛には共通性があるから、一方の愛が他方の愛を誘起し、或は之に変形することのあるのも決して偶然でない。クラフト・エピングも宗教的及び性的感情は、その興奮の度に於て相一致することを説き、両者の相互ひに代償することを論じた。

元来世人は宗教を以て現世を超越した純形而上的のものゝやうに思惟し、また宗教家自身も斯く信じてゐるが、併し私共の見る所を以てすれば、宗教信仰の根柢には彼等宗教家の陋視する性的情緒が存在し、しかも之が基調となつて宗教信仰の動機となり、或はその信仰の度を強めることが案外に多いものである。這般の事実に就いては、有名なる医学者にして且つ人生界の事情を精知せるテオドール・ピルロートも説いた処で、千八百九十一年の頃、その僚友ハンスリツクに与へた書簡の中にも、全然純粹にして肉欲から離れた宗教的感情の存在することを否定して次の如くに云つた。『私自身の感ずる処に依れば、特殊の宗教的感覚があると云ふが如き説は全く無意味である。世人の称して特殊の宗教的感覚と云ふ処のものは、畢竟想像的妄想的の気分に外ならない。それは宗教の惑溺者に於て色情の興奮を来すことや、彼の回々教徒に於ける祈祷連動や、被鞭韃宗徒に於ける飛びまわり等の如きものを見ても判る。寺院が尼僧に対して花聟、僧侶に対して花嫁と称せられてゐるのもまた前記の事実を示証するものである……人間は自身の真像に模してその神を作り、之に祈り、之を賛美する。しかし、所謂神なるものはたゞ人間の有する性質の抽象されたもの、或は擬人化されたものであるから、人間も、神も、世界も、宗教もまた異つた処はない。蓋し人間は超自然的に何者をも考へること能はず、また何等非自然的のものを為すことも出来ない。何となれば人間はたゞ人間的の性質のみを以て考へ、且つ行動するを得るに過ぎないからである』と。

実に此の言の通りで、超世間的たる神も、その実は人間がその形体性質を尺度とし標準として、想像的に作つた擬人的所産物であるから、之を自己の愛の対象として、実際の人間に対するが如くに熱烈の愛を傾倒するのは、恰も現実の地上に生存する男女両性が、相互ひに愛慕して一身を犠牲に供するのと、その性質に於て根本的に異つた処は無い。されば、宗教的及び性的情緒が相互ひに移行転化し、或は連想的に相結合して、容易にその一方を代償することの出来るのも、思へば異とするに足らない。

性的本能の欲望が他の方面の事項目的に振り向けられて、それに新しい興味を有するやうになつた無意識的の転向変形をば、フロイドは『昇華』 Sublimierung と称したが、宗教の信仰にもまた性欲の昇華と認むべきものが尠くないのである。之を古今東西の事実に徴するも、青春の身にして塵世を見限り、身を寺院に投じて僧となり尼となる者や、或は此の如き世捨人にならずとも、破鏡の嘆の悲しさに、若しくは愛人の無情に失望するの余り、世を厭離して肉から霊に入るが如き者も世上その例に乏しくないが、併し彼等は果して徹底的に性欲から解脱した純潔の僧尼、或は教徒と看做すことが出来るであらうか。否、私共の見る処では、彼等は地上の愛を失った代りに、天上の愛を欣求してゐるのである。生有の性的本能を宗教信仰の方面に転向せしめて、間接にその本能を満足せしめてゐるのである。現実に於ける愛人を失つた代償として、擬人的なるゴツト、基督、仏陀等に愛着し、燃ゆるが如き情熱を之に捧呈してゐるのである。熱烈なる僧尼の神、仏陀等に対する態度と、恋に燃ゆる俗人の情人に対する態度との相類似することは、実際上争はれない事実である。