二(グラーフは在郷軍人で、軍隊生活の当時は下士に昇進し)

グラーフは在郷軍人で、軍隊生活の当時は下士に昇進し、素行も善く、刑罰を受けたことも無ければ、狂ひじみた行動も無かつた。但し兵役中、ある若い女と関係して子を産ませたことがあって、その女といよいよ結婚しようと定まつた時、捕縛せられたのである。彼は公判の際、非常に緊張してゐたが併しその凶行を悔ゆるの色なく、抑制することの出来ない衝動的窘迫から凶行を演じたのであると云ひ、その動機を述べて、嘗て売笑婦より病気を受けたがため、あらゆる売笑婦に復讐すべく凶行に出でたのであると唱へた。公判廷に於て、裁判長と彼との間に交換せられた問答の要点を左に掲げてみよう。

裁判長「その方は多くの女を傷つけたに相違ないか。」

グラーフ「それに違ひありません。」

裁判長「如何なる訳で女を傷つけたのか。」

グラーフ「千九百年の或日、私が帰宅する途中、女に呼び留められ、その女から悪るい病を受けましたので。」

裁判長「それでは何故に多くの女を刺したか。その理由を申立てよ。」

グラーフ「私は病に罹つて後、ルードウイツヒ港の方へ行きました時、途中で二人の若い女に出逢ひました。その女を娼妓と思ひましたので、復讐してやる積りで剌したのです。これは已むに已まれぬ内心の要求であります。」

裁判長「その方は何故女の洗濯衣を家に持ち帰つたか。」

グラーフ「それは私にとつて快楽であるからです。」

裁判長「被告の凶行を掲載せる新聞記事を読んだ時、被告は何と感じたか。」

グラーフ「誠に悪るいことだと思ひ二度とはしないと決心しました。しかし、ある日の夜分、市街の方に行かうとしました時、娼妓らしい女が土堤の上を徘徊して居りましたので、例の已むに已まれぬ内心の要求が起つてまたもや刺す気になりました。」

裁判長「女のみを刺すんだな。」

グラーフ「ハイ。若い女を刺すのです。すると私は大に満足を感じます。」

裁判長「被告は、その際銘釘してゐたか、どうか。」

グラーフ「決して酒を飲んだことはありません。」

裁判長「三月の十七日、被告は一人の男子を傷つけたが、それは如何なる訳か。」

グラーフ「あの時は闇夜でしたから男であることが判からなかつたからです。」

グラーフに刺された若い女の中、十七歳のSは二箇所に刺傷を受け、二十歳のMと二十四歳のGは左の大腿を一箇所剌され、十八歳のRは下腹部を一箇所刺された。また二十歳のSchは、その情夫と共に散歩してゐた時、背部に一箇所、大腿に三ヶ処の刺創を受けた。二十歳のOはグラーフの憎悪せる娼妓に似てゐたので傷つけられた。二十三歳のHは可なりの重傷で三週間も病牀に呻吟した。犯人の情婦Mは腹部と大腿とを三ヶ所刺された。

ドクトル・エツクハルトは犯人グラーフの精神状態を検査し、性欲には全く異常あるも精神病者では無く、唯その快楽とする行為に抵抗するの力なく、その智能は薄弱なれどもなほ生理的限界内にありと鑑定し、監獄医のクーンは犯人は生来普通の人間に非ずと戡定した。

グラーフの犯罪行為は市民に多大の恐怖を感ぜしめた程、社会的危険性の大なる処から、検事は極刑に処すべきことを要求し、弁護士は医師の鑑定に基づきて刑の裁量を軽減すべきことを主張した。公判の結果、犯人は九年の禁錮刑に処せられた。千九百〇五年の一月、彼は獄中に病死し、解剖に附せられたが、その所見は世に公にされなかつた。