万葉集に売笑婦を遊行女婦と記してあるのは一定の居所なくして一の地から他の地に遊行するから起つた名で、之を和語で『うかれ女』と云つたのは、『浮かれ女』と云ふ意味で、一定の住地を定めずに浮かれ歩く浮浪民の女たるの謂である。それが一身の生活のために売笑を業とするやうになるのは、蓋し自然の帰嚮であつて、都市に於ては自由恋愛を恣にし得られる男子も、寂寞たる旅路に出でゝは自由に愛の相手を得られず、荒涼たる草枕に独り寝の夢を結ぶ淋しさを慰めるには、『浮かれ女』を要求するやうになる。
されば旅行の困難寂寞が遊行女婦をして売笑婦たらしめたものとすれば、それが世に現はれたのは非常に古いことに相違ない。しかし、遊行女婦といふ名の始めて文献に見えるのは、『万葉集』巻六に、天平二年大宰帥大伴卿が京に上る時、遊行女婦の児島が別れを悲しんで、『おほならばかもかもせんをかしこみと振りたき袖をしのびたるかも』『やまと路は雲かくれたりしかれどもわが振る袖をなめしと思ふな』と云ふ二首の歌を詠んだと云ふ記事である。大宰帥の居た大宰府は、当時九州唯一の大都市で、京師から官吏の派遣されて来る者も多かつたから、此のやうな土地に売笑婦の早くから現はれたも蓋し当然である。
なほ『万葉集』第十八巻に、遊行女婦土師と云ふのが『たるひめの浦をこぎつゝ今日の日は楽しく遊べいひつきにせん』と詠んだ歌があり、同じく十九巻に遊行女婦浦生と云ふのが、『雪島のいはほに生ふる撫子は千代に咲かぬか君がかざしに』といふ歌が載つてある。右の『たるひめの浦』といひ、『雪島』といひ、いづれも越中の国にある地名であるから、天平時代には越中の地方にも、職業的売笑婦のあつたことが分る。