鵜阪尻打祭に類似した風習は希臘の太古時代にもあつた。但しその異る処は子を生まんと欲する婦人が神殿に詣でて、肉体の後部を打たれることで、キツシユの著『女性の性的生活』Kisch, Das Geschlechtsleben des Weibes の中に這般の風習を記して、『結婚後子のない婦人はヂユノー Juno の殿堂に参詣し、僧侶より妊娠の贈恵を受ける。彼女達は悉く衣服を脱して、その内体を僧侶の面前に裸出し、牡羊の毛皮で製した革紐で、その肉体の後部を到る処鞭笞される。それによつて妊孕することが出来ると信ぜられてゐた』といひ、『これもまた色情を亢進するがための鞭笞の一種であらう。』 Es schein dies auch eine Forn der Flaglluation, um die Libidi sexualis zu steigern と説明してある。
しかし、私は此の如き風習を以て生殖器崇拝に出でたものと想定せざるを得ない。牡羊の毛皮を以て女子の身体後部の全体を打つと妊娠するといふ迷信は、色情を亢進するがためであると説明するよりも、寧ろ男根を象徴した牡羊の毛皮で作つた革紐を以て打つと、女子を妊娠せしめることが出来るといふ生殖器崇拝の風習に起因したものと解釈する方が妥当であるまいか。我国の古代に於ても、婦人を妊孕せしめる禁厭(まじなひ)として、所謂『粥杖』を以て新婦の腰を打つ風習が行はれた。そのことは『古今要覧考』にも詳記してあるが、これが生殖器崇拝に胚胎した故事であることは容易に看取される。されば先づ此の『粥杖』のことに就いて、少しく考証して見たい。
抑々『粥杖』は元来は『粥の木』といひ、正月十五日粥をたいた木を削つて杖となし、それで子の無い女の腰を打つと吃度妊娠して男児を生むと信ぜられてゐた。いつ頃から起つたか不明であるが、清少納言の『枕の草子』に、粥杖のことが書かれてあるのを見ると、平安朝時代の村上、朱雀両帝の頃位から始まつたらしい。『枕の草子』に、『正月十五日は粥の木ひきかくして、家のこたち女房などの伺ふを、うたれじと用意して、常にうしろを心づかひしたる景色もをかしきに、いかにしてけるにかあらん、うちあてたるは、いみじう興ありとうち笑ひたるも、いとはえばえし。ねたしと思ひたることわりなり。あたらしう通ふむこの君などの内へまゐるほどをも心もとなく、所につけて、我はと思ひたる女房ののぞき、けしきばみばみ、奥の方にたゝずまふを、前にゐたる人は心得て笑ふを、あながまと招きせいすれど、君知らず顔にて、おほとかにて居たまへり云々』と見え、『狭衣物語』に『十五日には若き人々こゝかしこに群れゐつゝ、をかしげなる粥杖ひきかくしつゝ、かたみにうかゞひ、又うたれじと用意したるすまひ、思はくども、とりどりをかしう見ゆるを云々』とある。それより後宝治の頃にも、なほ此のやうな風習の行はれたことは、『弁内侍日記』に粥杖に関する記述のあるのを見ても明かであり、遥かに降つて天正時代の頃迄も行はれた証左は、紹巴の『狭衣物語』の註『下紐』にある粥杖の記事である。
粥杖なるものが男根の象徴であつたことは、前記『狭衣物語』の記事の中にをかしげなる粥杖ひきかくし』といへる文句に徴して明かであり、降つて後世に至つては松の木を男根の如くに削つて打ち(『四季草木行事』)或は長さ三尺許りの男根を紙にてはり抜きに作り、正月十五日に去年娶りし新婦をうつ(『古今要覧考』)といふやうに露骨となつた。また近世時代に至つても、東北地方に「ホイタケ」棒と云つて、毎年正月十五日、道祖神『生殖器神』の社に男子達の持ち集つたといふ棒も、粥杖の遺俗である。なほ『倭訓栞』に記する所に依れば、往昔には伊勢の神宮にも『嫁たゝき』と称して、新婦を迎へた正月には、粥杖の行事をやつたといふ。
以上記述したが如く、平安朝時代より近世時代に至る迄には、粥杖或は棒を以て婦人の腰をうち、之によつて男児を産ましめることが出来るといふ迷信が、上下の階級を通じて一般に行はれ、その杖なり棒なりは男根を象徴し或はその形に彫刻したもので、生殖器崇拝に基因した風習の一であつたことは毫も疑が無い。然るに地方によつては、生殖器崇拝の風習より起つた妊孕を目的とする本来の意義を忘れ、筑摩祭に於ける鍋被りの間違つた行事を真似て、その年内に逢つた男の数を懺悔せしめ、榊杖でその数だけ婦人の尻を打つと云ふやうな鵜阪祭の如きものが起つたらしい。だから、この尻打祭の如きは粥杖の行事に胚胎して、而もその根本の目的を忘失した変型異態の性的祭事であると解される。