平安朝時代の歌人源俊頼の家集『散木奇歌集』神祗の部に、『春宮太夫公実のもとにて恋の心』といふ題で、『いかにせん鵜阪の森に身はすとも君が笞の数ならぬ身を』といふ和歌がある。これは越中鵜阪神社の尻打祭に寄せて詠んだ恋歌であつて、今日では此の神社に関する記録も失せてしまつたが、平安朝時代の頃には俗に鵜阪の尻打祭と云つて、関係した男の数だけ婦人の臀を笞で打つといふ奇異な風習が盛んに行はれた『八雲御抄』、『倭訓栞』に、『越中国婦負郡鵜阪神社の祭日に、神人祝詞を宜る時、一郷の女子に、その年あへる男の数を言はせ、杖をもて女の肌をうつことあるその杖を鵜阪杖といふ。賢木のしもとなり。よりて「しもとだち」の祭とも「しりだち」の祭ともいふ。俗には尻打祭といふ』とあり、『和漢三才図会』に、『鵜阪川、同森町レ社、号二鵜阪明神一、祭礼、神主用二榊枝一打二婦女一、但多少随二所レ触男夫之数一、猶二江州筑摩祭被レ鍋之類一』と記し、なほ『増補俚言集覧』にも、『鵜阪祭、越中鵜阪明神の祭の日、榊の枝にて、乙女の男したる数を禰宜が打つことなりとぞ。筑摩の祭の鍋に似たり』とある。
此の如く越中鵜阪の祭は、近江の筑摩祭に婦人がその接した男の数だけ鍋を頭に冠つて儀式に列するといふ風習のやうに、その関係した男の数に随つて、神主が婦人の臀を榊の杖で打つのである。此のやうな風習は近代に至るまでもなほ世人に知られてゐたと見えて、江戸時代の絵本や雑書にも記録されてある。例へば寛政五年版の初代歌川豊国の『絵本関の物競』といふ書物に、神主が榊の枝で一婦人の臀を打たんとする絵を載せて、『皆氏子にくむにあらぬ杖の下』といふ麹人の俳句と前記の源俊頼の和歌を掲げ、『男せし数だけ尻を打つ、不貞の戒めなるべし』と記してあり、天保二年版の『狂歌日本風土記』には、『越中の卯阪の祭待ちかねつ、つれなき尻の杖のあと見ん』とある蛙声園歌成の狂歌を掲げ、弘化四年版の緑亭川柳の『列女百人一首』には、葛飾北斎の挿図を添へて、『越中婦負郡卯阪明神の祭には、禰宜神主立ち合ひ、さか木の杖を以て淫行にたはむれし女の尻をまくりて、男にあへる数ほど打ちたゝくなり。近郷こぞりて之を笑ふ。若しかゝる事を恥かしと思ひ隠す女あれば、忽ち神罰を蒙り、身を失ふことあり。之を尻打祭といふ』とある。
近江の筑摩祭の鍋被りと越中の鵜阪祭の尻打ちとは略その趣を同じうする風習のやうに思はれるが、併し筑摩神社の祭神は『神社●録』等に依るに、御食津神、大歳神、倉稲魂神即ち食物の神であるので、毎年四月の祭事には鍋釜を以て之を祭り、八人の里女が各その頭に鍋を載せ、神供に備へて会舞し(『筑摩祭縁起略』に拠る)、また里の女にして再縁したものは二枚、三嫁したものは三枚の鍋を載せて神幸の後に候するのである(『神社啓蒙』に拠る)。『伊勢物語』の中にある和歌、『近江なるつくまの祭疾くせなん、つれなき人の鍋の数みん』とはその無情冷淡な恋人が一たび婚嫁したものか、或は再婚、或は三婚したものかを鍋の数によつて知りたいといふ意味である。然るに後世に至つて、女が関係した男の数だけ鍋を頭に載せて祭事に出で、且つその鍋の数の多いのを誇りとするが如き風習となつた。これは要するに『神社啓蒙』等にも記したが如く、『伊勢物語』にある和歌に示唆されて、浮気女や売笑婦が強いて鍋の数を多くし、之を艶態としたから起つたことである。『倭訓栞』にも、『中世より後は、里姉笑●をひさぐ者、強いて鍋の数を多くして艶容とす。歌の詞によつて顰に倣ふなり。笑絶すべし』とあり、また『栗里先生雑著』にも、『江州筑摩祭に、婦人の男をもてる数ほど鍋を載き祭るといふこと、古くより云へることなれど、神祭などに斯かることあるべからず。筑摩の神は御食津神にして、飲食をあづかり給ふ神なれば、鍋釜を以て祭ることなるべし』とある。されば近江の筑摩祭に於ける婦人の鍋被りは、自己の淫行を神に懺悔せんがために起つたものでは無く、飲食の神の祭典であるから、鍋を載せて神事に候したので、再婚三婚のものはその数に応じて、鍋を頭に被つたに過ぎなかつたのである。それが後世に至つて浮気多情の婦人が、殊更に鍋の数を多くしてさも誇り顔に神祭に出づるやうになり、また一方にはその関係した男の数だけ鍋を被ぶらぬことには、神罰を受けるといふやうな誤解的迷信も起つたのである。さればまた越中鵜阪祭に於ける尻打ちも、その起源に浙つて見れば、婦人の不貞淫行を戒めんがために起つたのでは無くして、他に何等かの原因から尻打の行はれたのが、後世に至つて筑摩祭の鍋被りのやうに、接触した異性の数だけ打たれるが如き風習に変化したものであるまいかと想はれる。然らば此の尻打祭の本当の起源は何であるか、是れ私が茲に考証せんと欲する問題である。