『きぬきぬ』と云へる和語には『後朝』の漢字か当て嵌められて、男女の朝の別れの意味に用ひられ『きぬきぬの、つらき別れ』とか『きぬきぬの哀れ』とか云ふやうに和歌にも詠まれてゐるが、併し此の言葉の元来の意味は『衣(き)、衣(ね)』であって、男女二人の衣のことを指したものである。抑々『きぬきぬ』といふ言葉は『万葉集』や記紀の歌には無く、『古今集』恋の三の中にある『しのゝめの、ほがらほがらと明けゆけば、おのがきぬきぬなるぞ悲しき』とあるのがその見え初めである。そして『古今集遠鏡』には此の和歌を俗解して『目がさめて夜がクワラリツと明けてくれば、一つになって寝てゐた二人の衣るものが別々になって別れるのが悲しい』とあるが、併しその続きに、『千秋云ふ。結句、顕注本に、きるぞ悲しきとあるぞ宜しかるべき、なるぞは穏かならず聞ゆ云々』とある。これに就ては黒川春村の『碩鼠漫筆』にも同意を表して『げにさる事にて、着るぞ悲しきとある方に拠れば、面々取り着ること慥かにて云々』と記してゐる。要するに夜が明けゆくと、二人は別れねばならないので、とりとりに衣服をきるのが悲しいと云ふ意を詠んだものである。『源氏物語』の浮舟の巻に『風の音も、いとあらまほしく、霖深き曉に、おのがきぬきぬも冷やかになひたる心地して云云』とあるも男女二人の衣服のことを述べたものである。
此の如く『きぬきぬ』の意義を解してみると、平安朝時代の頃には男女の寝床に入る時には各自その衣服を脱いで裸体となり、曉に至て相別れる際に再び衣服を着るやうな風習では無かったと想はれる点がないでは無い。忍頂寺務氏は『済元研究』に於て『きぬきぬとは男女の朝の別れの意に使ふが「あなをかし」には貴人の大殿ごもりする作法を記し、正妻に非る限りは赤裸にたりて這入る習慣であったと云ふ。現今の支那人などの例によれば、丸裸にて己が衣服を腹の上にかけて寝る。きぬきぬとは男女各自その自分の着物をつけて寝床より起きることであらう』と説かれた。此の解釈は甚だ面白く且奇抜であるが、併し私の見る処を以てすれば、男女が裸体になりて床を共にしたと云ふ風習が古代に行はれたものとは容易に考へ得られない。『万葉集』の中に散見する和歌に徴すれば、寝衣を着て臥たことは慥かである。
『万葉集』巻二にある人麿の長歌に『しきたへの、衣の袖は通りて濡れぬ』、『しきたへの、なびき寝し妹が袂を』とあり、又た同巻十一に『しきたへの衣手離れて云々』巻十七に『しきたへの、袖かへしつゝ寝る夜おちず云々』とある。『しきたへ』即ち敷妙或は敷栲とは『冦辞考』に説明せるが如く、敷細布の謂ひで、専ら寝衣の類に冦せしむる枕言葉であり、敷とは物の繁く美しきを云ひ、細布は絹布のことであるから、当時の貴人は肌ざわりのよい美しい絹布の寝衣を着て床に就いたものらしい。然るに『年々随筆』には、敷栲のことを蒲団の意に解して『地のよい細布は睛れの衣にこそ似つかはしからめ、夜の衣には物遠し。今思ふに敷たへの衣とつゞきたるは、衣の字をかけて義をなす。夜の衣は下に引いて敷くものたれば、敷たへと云ふ名はあり。今の蒲団といふ物たり。上に被ぶるもあり、言ひ慣れては、それも敷たへの衣といふべし』とある。さりながら『しきたへの、衣の袖』『しきたへの、衣手』『しきたへの袖』『しきたへの、麻びきねし妹が袂』といふ言葉のあるに徴すれば、『しきたへ』は蒲団の謂ひで無く、寝衣であることは明かである。それ故これを枕言葉として、袖、袂、たどゝつゞけるので、若の蒲団の意味であるなら、斯く続ける筈は無らう。
されば男女が床を同うする際、裸体で臥たといふやうなことは、私共より観ると、受け納れ難い説である。随って『きぬきぬ』とは、男女二人が暁になって別れる際、各自寝衣を脱して通常の衣服に着かへることの意であると信ずる。