四(以上に於て私は略ぼ女性的男子の梗概を)

以上に於て私は略ぼ女性的男子の梗概を述べた積りであるが、之に関連してなほ茲に説かんと欲するものは、男娼のことである。

男娼とは自身を受動的即ち女性的位置に置いて非自然の醜行を営む売笑男子の謂ひで、今日に於ても欧米の大都会に之を見ることが尠く無い。私が独逸に遊学してゐた頃、ミユンヘンや伯林等に於て、カツフエーやレストーランやまた夜の街路で、友人の独逸の大学生から『あれは男娼ですよ』と注意せられたにやけ男を折々見たこともあったが、其の中には女装した者もあった、巴里に往くと、男娼専門の青楼もあるさうである。我国に於ても徳川時代の天保の末頃迄は、江戸、大阪、京都等の大都市に男娼の青楼があって、それを蔭間荼屋と称へてゐた。男娼には、蔭間(娼妓に比すべきもの)舞台子及び色子(前者は少年の俳優、後者は将来俳優となるもので、芸妓に比すべき高等の男娼)の三種があった。彼等の容貌、体格、姿容、挙措、態度が如何に女性的であったかは、彼等を描いた江戸時代の絵草紙や稗史小説等を見れば思ひ半に過ぎるものがあらう。当時代に於て世に名のあった女形俳優の多くは、色子から身を起したもので、『塵塚談』にも『女形は多分色子共より出で来て、上手といふ地位に参りしものも多くありける由なり』とある。男娼が女装をしたのは、寛和から明和、安永にかけての頃からであって、染色の振袖を着、幅広の帯をしめ、頭髪には髷を出し、髷も女のやうに結んだ。『守貞漫稿』にも、三都の男娼共にその扮装は処女の如く、大振袖または中振袖を着し、島田髷に給んだと記してある。此の如く彼等は女装して男色を売ったのであるから、之を抱へ置く処の男色楼、所謂、若衆店、蔭間茶屋に於ては、その容貌体格の女性に類似した艷麗繊弱の女性的男子を吟味撰択したことは固より疑ひない処で、特に京都の方面から仕入れたものである。それは京都のものは肌膚が一般に美しいと云はれたからで、本場は加茂川で洗ひ上げた代物を持て囃されたものである。

此の如く男娼は模型的の女性的男子であって、ヒルシユフエルドの所謂男子と女子との中間級と看傚すべき体格容貌を具へてゐたから、女性に扮するには最も適当であり、その音声もまた清鋭であったがため、愈々女性に模し得られ、女色に渇した僧侶や女色に飽いた蕩児を顧客として、当時の絵草紙や小説本等に嬌態を描かれ艷色をうたはれることが出来たのである。此の如く彼等が模型的なる女性的男子たる以上は、その性欲もまた顛倒して同性愛の情調ある者も多かったに違ひない。『寛潤役者気質』に『若衆の方より念者にこがるゝことは古今ためしも無きことなり』と記して男娼に同性愛なきことを云ひ、また男娼を相手にした僧侶さへも、女色に天悦、男色に大悦といふ隠語をつけ、(天悦とは二人共悦ぶが、大悦とは一人のみの悦びに過ぎないと云ふ意味)男娼には情熱の無いことを暗示してゐるが、併し女形俳優の荻野八重桐、瀬川路考等の逸話伝説などから考へて見ると、同性愛の濃厚なる者もあったことが推測し得られる。しかし純粋の同性愛のみに限らず、また男性に対する愛情もあったこと即ち両性愛 Bisexualitut を兼有したことは、御殿女中や好色の後家の相手となった男娼の多かった事実に徴しても明かである。