四(黴毒に於て、脳髄を被包する軟脳膜もまた)

黴毒に於て、脳髄を被包する軟脳膜もまた侵襲せられることは周知の事実であって、既に第二期の初期から殆ど毎常脳膜に炎症性変化を来すものである。そして前記の如く、駆黴療法によって病毒の滅弱する時は、他の諸臓器に於けると同様に、脳膜に於ても防禦反応的炎症は弱くなって、駆黴薬の作用を免れた残存病原体を殺滅することが出来ずに、その炎症病竈はたゞ単純なる浸潤となって慢性潜伏性の経過を取り、遂に数年の後、軟脳膜の崩壊を来すがため、脳脊髄液はその内に進入して脳実貿にまで浸漬し、病原体もまた之に伴はれて脳実質内に入り込み、神経組織の破壊消耗に関与するやうになる。此の如くにして麻痺性痴呆に特殊なる解剖的変化が発生するのである。

されば麻痺狂、脊髄癆の如き所謂変型黴毒の起るのは、要するに駆黴療法の行はれる結果である。ノンヌ・ベツトも不完全なる―病原体を充分に殺滅せざる―サルヴアルサン療法のために麻痺狂者の発生の増加することを認めた。されば駆黴毒療法を受けずにそのまゝ放任し、或は無力の民間薬を服用するが如き黴毒患者は、爾後麻痺狂に罹ること無く、或は甚だ稀なる道理である。ゲンネルリツヒは駆黴療法を患者に施さざる時は、脊髄癆、麻痺狂よりも第三期黴毒の発生すること遥かに多かるべきことも論じた。

以上説述した処によって、吾人は文化民族に麻痺性痴呆者を出だすこと多く、未開民族に同病者の甚だ稀有なる理由の一面を解釈することが出来る。水銀剤、沃度剤、サルヴアルサン等の駆毒薬の発見と応用とは固より文化の賜であつて、之がために文化民族は至大の恩恵を受けてゐるのであるが、併し体内に●蔓する病原体を悉皆殺滅すること能はず、外観上は黴毒の治りした如くに見えても、毒力の滅弱した病原体はなほ依然として身体内に残存潜伏し、そして身体組織は病毒減弱のため之に対する防禦的炎症反応が充分惹起せざるにより、病原体はいつ迄も生存し、脳膜に於ても慢性潜伏性病竃が残存して、遂に数年の後破壊を来し、脳脊髄液及び其の内に遺存せるスピロヘーターを脳実質内に伏入せしめる機会を与へ、麻痺性痴呆を発起するに至ることを思へば、文化的産物の一たる駆黴薬の発見応用も、却って文化民族に麻痺狂者を踵出せしめる原因となったことを悲しまざるを得ない。これまた文化に伴ふ悲劇的現象の一である。