三(抑々医術の進歩しない未開半開国に於ては)

抑々医術の進歩しない未開半開国に於ては、黴毒に対しても特殊の治療法、即ち直接に病原体を殺滅し、或はその毒力を減弱する薬剤を以てする駆黴毒療法が普く行はれてゐない。それ故、半開未開の民族の黴毒にあつては、病原体たる「スピロヘーター」の毒力が猛烈であつて、全身諸臓器を汎く侵襲し、且つ早くから第三期黴毒を来す傾向がある。されば文明国民が未開半開の民族から黴毒に感染した時は重劇なる黴毒に罹り、従つて早期から護●腫(第三期黴毒)を発生するものである。ゲンネルリツヒは特殊駆毒療法の行はれない西部アフリカ或は支那に於て、黴毒に感染した欧州人に第三期症状を来すこと早き事実を認めたが、その中にも香港近傍の地方に於て土人から病毒を受けた一人の水夫の如きは、全身殆ど到る処に汎く護●腫を生じ、帰郷後五年間治療を受けたが、なほ全治しなかつた。私も嘗て台湾土人の娼婦に接した某学校の小使が重症の黴毒に罹り、早くから第三期症状を発した一実例を見たことがある。

然るに文化民族に於ては黴毒を患ふもの甚だ多きも、特殊駆黴療法(サルヴアルサン、水銀、沃度剤の注射及び内服等)を受けて、病毒が減弱するがため、重劇なる病変を惹起することは無い。さりながら茲に銘記すべきことは、第二期黴毒に於ける皮膚粘膜の種々なる発疹、第三期黴毒に於ける護●腫は、之を病理学の見地から観れば、病原体たるスピロヘーターに対する防禦的炎症反応であることである。殊に近年ホツフマン、ゲルトネル等の説に依れば、皮膚は病源体の毒力に打勝ち、且つ全身諸臓器を免疫たらしめる防禦的物質を形成して、血液中に送入することを説いた。之を臨床上の事実に徴するも、皮膚に強く発疹を生じた患者は、その後、神経中枢に黴毒性疾患を来すこと殆ど無く、之に反して皮膚に発疹を生ずること少き病者には、数年後に至りて脊髄癆、麻痺狂を来すことが多い。処で駆黴療法は直接或は間接にスピロヘーターの毒力を減殺して黴毒を治癒するとは云へ、しかも病毒の弱くなる結果として自然の防禦反応も薄弱とならざるを得ない。水銀なり、サルヴアルサンなりが悉く病原体を殺滅してしまふならば根本的に黴毒は全治するも、実際上、這般の効力は決して確かでなく、外観上では治療したやうに見えても、その実、病原体の残存潜伏することが稀有でない。されば駆黴療法の徹底的に行はれない場合には、病原体の毒力は滅弱しながらも、なほ身体内に残存し、そして身体組織は病毒の滅弱せるがために之に対する防禦反応を充分に惹起しないことになる。