二(抑々東西を通じて半開未開国に麻痺性痴呆患者の)

抑々東西を通じて半開未開国に麻痺性痴呆患者の甚だ稀有なることは、諸学者の報告に徴して明かである。ラカベール・マリーの報告に依れば、アラビアに於ては住民の七十三乃至八十九%が黴毒に罹るが、癲狂院に収容せられる麻痺狂患者の数は僅かに四・五乃至六%に過ぎない。ホルチンゲルはアベシニアの住民の八十%は黴毒を患ふも、一人の麻痺狂患者もなしと云ひ、リユヂンはアルギール及びアイギスに黴毒が非常に蔓延するに拘はらず、たゞ一の麻痺狂患者を見たのみであつた。またヂユーリングは小亜細亜に於ては第三期黴毒患者を見るも、未だ嘗て麻痺狂、脊髄癆を認めずといひ、サイフエルト・キユルツはカメルに於て、ブレロはバタヴイアに於て、クレベリンはジヤヴアー及びシンガポールに於て同様の事実を認めた。その他、ラッシユはシヤム国には黴毒の猖獗を極めるも、麻痺狂に罹る者の無いことを記述し、ノイマイエルはボスニア、ヘルチエゴウイナには数百年来黴毒が蔓延するも、麻痺狂及び脊髄癆の非常に稀有なることを記述した。

上記の如く東西二洋を通じて半開未開国には麻痺性痴呆は甚だ稀であるが、之に反して文化民族には同病患者を見ることが甚だ多く、例へばゲルトネルの説に依れば、普国に於ては人口一万人に就き、東普及びウエストフアーレンに於て二十七人、シユレスウイツヒ、ホルスタンに於て七十一人、伯林に於て三百五十九人の麻痺狂患者のある割合になつてゐる。我国に於ても下田及び杉田二氏著『最新精神病学』に記する所に依るに、精神病中比較的多数に認められ、各病院在院精神病者中、総数の約十分の一を占めてゐる。

上記の如く、未開半開の民族には麻痺狂が甚だ稀であり、之に反して文化民族に多いのは如何なる原因に由るのであるか。ゲンネルリツヒは之を説明して特殊駆除療法の行はれざると否との相違に帰した。此の説には一面の真理があると思はれるから茲にその要旨を細述して見よう。