麻痺性痴呆(麻痺狂、進行性麻痺)といふ精神病は、黴毒感染後数年乃至十年を経て起る処の大脳の疾患であつて、殊に前頭葉に著しき萎縮を来し、発病後多くは二三年にして痴呆状態に陥り、遂に哀弱のため死亡するものである。従前は麻痺性痴呆及び脊髄癆の二者は変型黴毒 Meta syphilis 或は晩発黴毒 Spatsyphilis と称せられ、黴毒の病原たる『スピロヘーター、パルリダ』によつて起る疾病に非ずして、黴毒によつて発生せる毒素の作用に起因するもののやうに思はれてゐたが、近年に至って野口英世氏が麻痺性痴呆者の大脳皮質内に「スピロヘーター」の存在するを発見証明してから、麻痺性痴呆の中枢神経の黴毒病なることが判明した。
然るに茲に興味ある事実は、未開半開の民族にも黴毒の蔓延するに拘はらず、麻痺性痴呆に罹る者が甚だ稀有であり、之に反して文化民族の之を患ふ者が甚だ多いことである。世界あらゆる民族を通じて黴毒の蔓延して居るのに、大脳を犯す処の黴毒たる本病が、民族の文化を異にするがために前記の如き差異のあるのは何故か。此の興味ある問題を解釈する上に於て、ゲンネルリッヒの世に発表した「変型黴毒発生論」 Gennerlich, Die Pathogenese der Metasyhilis. Munch. med. Moch. Nr. 25 1992 は、吾人の参考の資に供すべき値があるから、之み基調として茲に叙説することにした。