黴毒の原名ジフイリス Syphilis は千五百三十年の頃、伊太利の医家で且つ詩人なるギロラモ・アカストロの公にした “Syphilis, sive Morbus gallicus” と題せる詩篇の標題に由来する。この詩は先づ初めに黴毒の原因症候のことを詠じ、次にその予防治癒のことを説き、最後に治療薬剤のことを挙げてある。それにジフイリスと云ふ標題を附した理由は、この詩の中に載せてある神話に基づいたのてあるが、その神話は左の如きものである。
昔、ある島にアルチトホウスと云ふ王様があつて、その島を支配してゐた。処が、その臣下にジフイルス Srphilus といふものが居つて、太陽の光のあまりに暑いのに憤怒して、日の神の命令に従はず、その王様のアルチホウスの尊ふべきことを吹聴したので、日の神アポロはその罰として、ジフイルスに新しい病を与へ、次いで王様にもまたすべての国民にも同じ病を与へた。そのジフイルスの名に基づいて、ジフイリスをこの病の名称としたのである。
然らばジフイルスといふ字は如何なる意味の字であるかと云ふに、それは希臘語から出たもので、不潔の愛或は不潔の友と云ふ意味である。
以上はジフイリスといふ名詞の語原に就いて今日の処、最も信頼すべき説であるが、しかしなほ種々の異説があって、千七百川十六年、カステリーはジフイリスと云ふ字は希臘語の『悪むべき』といふ意味の字から導かれたものであると云つた。しかし若しこの説の通りであるなら、その字の形は Syphilis でなくて、Siphilis であらねばならぬから、この説は正当でない。
それがら黴毒の原語の一たるルエス Luos はルエス・ウエネレア Lues venerea の略であつて即ち愛欲悪疫と称すべき意味である。この名称を始めて用ひたのは、仏国の医家アエルネルで、その死去の少し前、即ち千五百五十八年に病没せる少し前に公にした書物 De Luis venerea Curatione Perfectissina の中に、ルエス・ウエネレアの名称を挙げてある。しかし、その名称の本は之より前のベテンクールといふ医家にありと謂はねばならぬ。ベテンクールは仏国に於て最も早く黴毒の研究に従事した人で、千五百二十七年に既にモルブス・ウエネレウス Morbus venereus の名称を用ひてゐる。フエルネルはこの名称を襲用して、たゞモルブスをルエスに代へたと云ふ迄である。