異性を虐待して之に苦痛を与へることによりて快感をおぼゆる「ザヂスムス」及び異性より虐待せられて苦痛を受けることにより快感を惹起する「マゾヒズムス」の両変態性欲を総称して疼痛淫乱症 Algoragnie と云ふことになつてゐるが、併しこの二種の性欲倒錯の他に、なほ一種特異の疼痛淫乱症と認むべきものがある。それは自から手を下して異性を虐待するのでもなくまた異性より虐待を受くることも無しに、唯だ他人或は動物の苦悶呻吟する痛ましい惨めな有様をば、よそより瞥見して性的興奮を来たし快楽をおぼゆる者である。
羅馬の全盛時代に於て貴婦人達が凄惨残酷を極めた刑罰や狩猟を見て楽んだことや、殷の妲妃が紂王の傍に侍つて残忍なる炮烙の刑を面白げに見たと云ふことや、衛の霊公の夫人南子が、悶え苦しむ罪人を庭前に集めて恍惚と眺めたといふことや、米国の婦人の中に黒奴に対する残酷なる私刑を愉快げに見る者の尠く無いと云ふことは、之を精神病理学的に観察すると、或は茲に説述せんとする一種の「アルゴラグニー」のためかも知れない。カサノヴアが千七百五十七年に於けるダミエンスの恐ろしい拷問及び死刑り惨状をば一種の感興を以て督見した光景に関する記述に徴しても、此種の心理的異常が「アルゴラグニー」に基因すべきことを容易に想像することが出来るのである。私は茲に珍異なる「アルゴラグニー」と認むべき実例の若干を挙げてみよう。
ステアンスの実験した好色の一男子は、その妻の分娩する有様を見んことを切実に要求し、其の後妻が分娩時に苦悩した光景を脳裡に想像しないことには、性交を行ふことが出来ないやうになつた。彼は幾度も他の女の分娩する状況を傍観し、ことに初産婦の甚しく苦痛を訴ふる有様を見て、大なる感興と満足とを覚えた。
フエーレーの報告した英国生れの一男子は、精神々経病の遺伝素質も無く、また変質徴候をも認めなかつたが、性欲に一種の異常を有し、十五歳の時、その従弟が鼻から出血したのを見て始めて性的興奮を感じ、爾来、従弟の鼻出血を来たす毎に、また他の男子の負傷して血を流すを見る毎に多大の快感をおほえた。
フエーレーは、なほ下記の如き興味ある実例を記述した。それはヒステリー性の処女で、その年老いたる乳母が、かねて死んだと思つてゐた息子の不意の訪問を受け、その息子があまりの嬉れしさに泣涕し啜り泣きしつゝ、母の足もとに身を投げた哀情切々たる有様を傍見し、息子の如何にも悲しげなる涙と吐息とが端なくも彼女の今まで知らなかつた性的興奮を惹起してより以来、彼女は一の男子がその膝もとに身をすり寄せて啜り泣きする淫夢を幾度も見るやうになつた。彼女は結婚する意志が無いでは無かつたが、併し求婚者があつても毫も愛情が起らないので、拒絶するのが常であつた。二十三歳の時、ピレネーン浴場に赴いた折り、偶ま牡馬の互ひに争闘する光景を見て著るしく性的衝動が起り、名状すべからざる快楽を感じた。彼女は野蛮極まる醜くいことゝは思ひながら、之を抑制することが出来ないので、爾来、牝馬の相闘ふ場所を探し求めるやうになり、なほ競馬にも興味を有つやうになり、若し騎手が落馬することがあると、軽度ながらも性的興奮をおぼえた。その後、彼女は結婚したが、併し一度も性的快楽を感ぜず、唯だ牡馬の苦闘する有様を眺め或に之を夢に見ることによつて愉快を感じた。
またフエーレーの記述した十四歳の男児は、一日丘陵の上に坐せし時、偶まその下に重い荷車を牽いて馭者に叱咤せられ鞭うたれつゝ、苦しげに徐歩する駄馬の喘ぎ悶ゆる有様を望見して著るしく性的興奮を来たし、爾来重荷を牽く馬を見る毎に快感を覚えた。
ヱリスも次の如き奇異なる実例を記述した。それは同性愛を好む一男子であるが、ある日偶々窓より庭前を眺めた時、一匹の蜘蛛がその巣に引きかゝつた一同の蝿を捕へ喰ひついた有様を見て忽ち性的興奮を来たしたといひ、また、智識階級に属する紳士及び貴婦人で、蜘蛛の巣に引きかゝつた蝿の苦悶する啼き声を聴いて快感を惹起したものがあつたと云ふ。和蘭産れの大哲学者スピノツアーは、蜘蛛を沢田集めてその争闘する有様を見るのを何よりの楽みとしたと云ふ逸話があるが、或は同様の異常性欲に起因せる戯むれかも知れない。
タムブロニーは、十一歳になる男児がある新聞紙に、一男子がその娘の身体を踏み躪る光景を写せる挿図を見て快感が起り、爾来この光景を脳中に想像して自涜に耽つた実例を記述した。