人間にあつては、嗅覚機知の著しく退化せるがため、動物に於けるが如くに、異性の臭気によって性欲の興奮することは概して稀であるが、併し特に嗅覚の鋭利なるもの或は変質的人間に於ては、往々這般の事実が認められる。これに就いて茲に叙説するに先だち、一言するの要あるは、芳香性の臭気が神経系の機能を鼓舞する作用あることである。
抑々揮発油を含む処の芳香物、例へば茴香、肉桂、益智、薄荷等の香気を適度に吸入すれば神経の機能が興奮し、血液循環及び消化を催進するが、余り多く吸入すると却って是等の機能の抑制せられることは周知の事実である。シールヅは、麝香、菫の香気が血管運動神経に作用して、脳髄に於ける血行を増進し、且つ心臓の運助を鼓舞することを証明し、フエーレーは麝香が筋力を倍加することを認めた。啻にそれ許りでない。一種の蘭科植物たる「ヴアニラ」Vanillaが性欲をも興奮することは往古より人の知る所で、フオンサリーブは之を性的に冷淡なるものに与へたことがある。
人間の体臭の中にも、腋臭は筋力を此舞する作用がある。フエレーの記する所に依れば、一老婦が洗濯屋に於て労働してゐたが、晩方近くなって疲労を来すと、幾度もその右手を他人の腋の下に挿入し、次いでその手先を自分の鼻に持って来て、之を嗅ぐこと再三再四に及ぶことを見た。此のやうなことは他の工場に於ても屡々認められると云ふ。此の如く、腋臭が神経系を刺激し、筋力を増進すること明かなる以上は、また性欲を興奮する作用あることも疑ひがない。フエーレーの記述した六十歳の一男子の如きは、不意に処女或は夫人の腋窩に手を挿入し、その手を鼻の前に持ち来して先に残つた腋臭を嗅ぎ、以てその性欲を満足したと云ふ。またエリスの記する所に依るに、墺国の一農夫は年若き婦人と舞踏する際、自己の腋窩にさし入れた手巾で相手の女の顔を拭ひ容易に誘惑の目的を達したといふことである。
エリスは次の如き事例を記した。ある紳士は旅行の途上、汽車の中で美しい妙齢の貴婦人に遭遇し、かなり長い間互ひに談話してゐたが、その婦人が紳士の側から起つて窓を開き、身を屈めて窓の手すりに掴まり、その腋窩が紳士の顔に触れん許りになった時、その臭を嗅いだ紳士は突然性的興奮をおぼえた。また或る一婦人は平素は異性の臭気によって発情することもないが、その既に性欲の興奮した場合には、愛人の腋窩を嗅いで興奮の度を増強せしめたと云ふ。