八九歳乃至十歳の幼女の妊娠分娩に関する文献は欧洲に於ては必ずしも稀有でない。例之ばモントゴメリー Montgomery は既に一歳の頃から月経の始つた一幼女が十歳で分娩したのを見、ヅトルボル D'outrcport は九歳の頃より月経の来潮した一幼女がその後間もなく妊娠したのを見、ハルレル Haller は出産の際恥毛の発生し二歳にして月経のあらはれたものが九歳にして分娩したことを記述し、モリトール Molitor は四歳にして月経の来潮し八歳にして異性に接し九歳にして分娩したものを報告し、カルス Carus は二歳にして月経のあらはれ三歳にして恥毛及乳房の発育したものが八歳で妊娠したのを見た。
支那に於ける載籍にも幼女の分娩に関する記事を往々散見する。例之ば『南史』に『張麗華、初事二襲貴嬪一方十歳、後主見而悦レ之、因得レ幸遂有レ妊』とあつて十歳にして妊娠した幼女のあつたことを記し又『輟耕録』には『松江民蘇達卿女年十二、贅二浦仲之子一、為レ婿、明年生二一子一』とあつて十二歳にして結婚し十三歳にして分娩した少女のあつたことが記るされてある。
我国に於ける文献に徴すれば天野信景の『塩尻』巻九(宝永年代の刊行)に『去し癸未の冬、春日井郡六師村の女子六七歳にして孕みけるが産に及ばずして死しけりといふ』と見え、『筒井記』には『永峰七年三月丹波国七歳の少女子を産む。是れ世を挙げて天下の怪異なりといふ』とある。此の如き記録が果して事実であつたか否かは固より分らないが、併し『兎園小説』『宮川舎漫筆』『一話一言』『松屋筆記』等に八歳の幼女が分娩したと記せるものは全く虚構の風説を其儘に盲信した嘘話に他ならない。
文化九年壬申十月十日御勘定奉行柳生主膳正様へ口達
土屋治三郎使者
大村市之允
拙者在所、下総国相馬郡藤代村百姓三吉の厄介忠蔵娘とやと申す当歳八歳に罷成者、去月十一日暁出産之処、男子出生候段、届出候につき、年頃不相当の儀に候間、見分の者差遣し様子相糺候処、同人儀、文化二丑年五月一日出生致し、四歳の頃より経水のめぐり有之候得共全く病気と心得罷在候、然る所去秋の頃より腹満の気味有之、医師へ見させ候処、蟲気にても可有之哉に申し聞え、服薬炙治等油断なく相用候得共、相替り候儀無御座、当春に相成り、満致腹満候に付き、種々致療治候へども猶又医師にも相尋ね候へども、病気に相違有之間敷候得共、万一懐胎にても可有之哉、容態難決申聞候。其後近頃に相成り乳も色づき、愈々懐胎に相違有之間敷段、医師申間候間、右の用意致し罷在候処、去月二日、夜中より蟲気つき、翌三日暁、平産、母子共に丈夫にて、乳汁も沢山に有之候由、且又とや儀は年頃より大柄に相見え候。出生の小児は並々の小児より産髪黒長き方に有之、その外は相替り候儀、無之候由云々(『兎園小説』より抜抄)
右の記録に依ると、下総相馬郡藤代村の住民忠蔵の娘とやと云へる幼女は既に四歳の頃より月経を通じ、七歳にして妊娠し八歳にして分娩したもので、その体格は年齢に比して大なるものである。そして此記録は文化九年十月十日附で代官土屋治三郎の使者大村市之允といふのが幕府へ報告したとになつてゐるから、当時に於ては奇異なる出来事と一般に信ぜられ大に世間の噂に上つたものと見えて、該記録と大同小異の記事が『宮川舎漫筆』『一話一言』等に掲載せられ、又『宝暦現来集』『松屋筆記』などにも記るされてある。
八歳の幼女が赤子を産んだと云ふ評判が当時あまりに高かつたので、鳥取池田藩の分家冠山老侯で通つてゐた松平縫殿頭定常がその事実の有無を家来に訊いてみると、全くそれに相違ござりませぬとの返答。しかし老侯は容易に之を信ぜず、隠居の身分であるのを幸ひ、或日一騎がけにて藤代村へ出かけ、忠蔵の家を探された処、藤代村には忠蔵といふ者の家も無ければ、八歳で子を産んだ者も無い。実地の調査で始めて虚構の風説なることが分つた。しかし、当時の随筆雑著には之を事実在つたことゝ信じて驚異のあまりに掲載したのであつた。
抑々江戸に於ては文化文政より嘉永にかけて巧みに嘘話を捏造し之を世間に流布させて人を驚かすのに興味を有つた悪習が閑人階級に行はれた。『文化秘筆』に、文化十四年の三月、両国柳橋の料理屋万屋八兵衛方にて大酒大食会が開催せられ、酒組にては三升入の大盃にて三杯を飲み皆々ヘ一礼を述べて帰つた者があつたとか、飯組にては飯五十杯辛子五把を食つた者があつたとか、蕎麦組では蕎麦を六十三杯も食つたものもあつたとか記して一々その人の姓名住所年齢までも書きしるしてあるが、併しそれが全く根無し事であつたことは、その末尾に『この書き付け酒井若狭守様の御家来松本大七方より借り写し置候処其後承り候へば虚説の由』とあるによつて明かである。然るに世間では之を事実と信じたものも多かつたと見え、市井の奇聞異談を蒐録せる『兎園小説』にも之を掲載してゐる。
今日の新聞が屡々虚偽誇大の記事を掲げて読者の興味を唆るのと同様に、江戸時代に於ても今日の新聞に類する瓦版の印刷物が読み売りせられて捏造の虚事を売りあるいたものだ。他人を担いで面白がらせてやらうと云ふ閑人の悪戯から起つたことは言ふ迄もない。藤代村の幼女とやの分娩談の如きは、同地の代官より幕府に報告した官文書の体に擬して巧みに捏造したものであるから当時の人々が之に欺かれて事実と信じたのも無理は無い。江戸時代の文献には、虚構の記録が多いから、ウッカリ信用してはならぬ。