十二歳の少女の妊娠

寛政十一年二月の始め、水戸家の医官原南陽は武州熊谷の豪農高安家から往診を請はれ、その家に赴いた。玉川砂利をしきつめた辺土には稀に見る立派な欅つくりの玄関へ、南陽の駕籠が下ろされた時は、申の刻を少しく過ぎて、近くに見える秩父の山々には夕陽が既に落ちかゝり、名残の色を淡くオレンヂに染めてゐた。

脇差をさげたまゝ敷台に立つた彼は、この日朝から駕籠にゐて窮屈にされてゐた脚を、充分に踏みはたかつて手をうしるに廻し、上半身をぐつと反らせて、仰向きながら腰のあたりを四つ五つ続けさまに叩いた。主のゐない燕の巣が欄間に堆く成つて居るのが眼にとまつた。

質素なうちに金目のかゝつた昔ながらの古風の一室に通されて、間もなく半白な老人が現はれ、静かに座についた。

『手前は当家の主人藤左衛門に御座ります。此度は勝手な御無理を願ひたるに拘はらず、早速お運び下され、真に有り難い幸で厚く御礼申し上げます』

慇懃な挨拶をうけた南陽は『ほゝう』と言つたのみで、しげしげと老人のつややかな顔を見守り、いぶかし気な面持をした。彼は今が時まで、藤左衛門自身が患つてゐるとのみ思つてゐたからであつた。

主人の藤左衛門は、南陽が正しく来てくれるかどうか危んでゐた折柄、遠路をおとづれくれたその厚意を心から感謝して、病人の日々の様子などこまごまに語つた。

成らうことなら、陽のある内に診察したいと思つてゐたが、主人から委細に容態をきいて居る内に、春とは云へまだ短い日脚は、早や燭台の運ばれる時刻に移つて来た。

病室は主人夫帰が常に居る部屋のつゞきで、十畳も敷かりさうなかなり広い室が当てゝあつた。患者と云ふのは意外にも主人藤左衛門の一人娘、今年とつて十二歳の、それも年弱な十二の小娘であつた。

郡内の蒲団の上で、面やつれた小さい顔を伏せて寝てゐた娘は、襖の開く音に思はず頭を上げた。乱れた下げ髪の下につぶらな眼を見張つて、入つて来た南陽の顔を不審気に眺めてゐたが、それと察したのか、蒲団の上に可愛く坐つて、抱かれた人形と一諸にヒヨコンとお辞儀をした。そのはつみに蝶々髷に結んだ鹿の子の巾が、白い笑顔の上でひらりと躍つた。そのさまは霜に咲きなやんだこの頃の梅の蕾を思はせた。

南陽は小児を診る事を得意としなかつたが、しかし斯うなつたからは診ない訳にも行かない。診を進めて行くうち、これ迄数多くの医者が診立てた疳症でない事だけは明かに知れたが、さて不審な首肯し得ない点があつた。

燭台を増させ、望、聞、問、切の図法に則つて深重にくりかへし診察した。どうしても●がはしい所がある。

此の時不図彼の頭を掠めたものがあつた。それは既に二十年も昔のことで彼がまだ京都に在つて、産科の祖といはれた賀川子玄の教へを受けてゐた当時、親しく眼に見、手に触れた一女児のことであつた。

『それに違ひない。これは正しく病では無い。たしかにそれだ。』

と心中窃かに決すると、それを炙点や、また高値な桂枝湯や人参で験を収めようとした他医の愚を憫笑せずに居られなかつた。

かく決つてはいつ迄診る要は無かつた。彼は自ら小娘に病衣を着せ、細帯を結んでやつた。

『それにしても、此の事を正直に藤左衛門に話したものであらうか。この一事は奸悪な人物を出だすは固より、大素封家の家柄を傷つけるやうな不祥事に至りはしまいか。それがために生ひ先の長い此の可憐な娘の一生を過たせはせぬだらうか。また次第によつては古来からの名家か一朝にして葬り去られる程の不名誉を惹超すまいか。けれどもこれは病と称して置いた所で、いつかは露はれることだ。自分としても偽りを口にするのは本意でない。さて如何したものであらう。彼は次室へ下つたが、手水は使はずに考へに耽つた。その夜種々の歓待をうけた彼は酩酊にかこつけて、小娘の症に就いては一言も漏らさずに離れ座敷に臥した。

次の日も温く晴れてゐた。六つを聞いてからしばらくして起き出た彼は、いつも自宅に居る時のやうに庭下駄を突かけて庭内をぶらぶら歩いて見た。素晴らしい花崗石で組んだ化粧井戸の傍に生えてゐる鼠柳は、銀の筆尖のやうないくつかの芽を鋭く見せてゐた。細枝を飛びまはる鳥のかげが眼についた。

座敷に戻つて薄茶を喫して居る処へ、主人藤左衛門は甲州印伝か何かの贅沢な煙草入をさげて、つゝましやかに入つて来た。桐胴の火鉢をさしはさんで、一二の世間話の末、愛娘の病状に就いて委しく問ひ始めた。

南陽はすべてを決心の上、自己の信ずるまゝを匿さずに打明けた。案の定、主人は愕然として驚いた。絶望的な暗い惨めな顔がしばらく続いた。が、忽ち薄明るく晴れて来た。

『先生の非凡の御技倆には実以て感服仕りました。それに間違ひ御座りませぬ。実は斯様な次第で、私は老来ただ一人の娘を育てゝ成長を楽しんで居りました。そこで実はあれに末々娶合せる考へで、二年前から私の甥で今年十五になる小倅を引取りました。一家のことで御座います故、食事は申すに及ばず、手習ひ、算盤、手遊びまで兄妹のやうに一つ部屋に起居させて置きました。処が二ヶ月ばかり前から、あのやうな病に罹りまして、諸方の先生方から御丹誠を受けましたが、とんと験しが見えませぬ。依つて此度先生様の御高診を願つた次第で御座ります。それがお蔭さまで計らずも悪阻であつたことは天の賜で、真に有り難い極みで御座ります。』

と喜色は面に溢れ、手を打つて妻を呼び、共に打喜ぶ有様は、既に初孫を見た嬉しさであつた。南陽が昨夜よりの心痛は幸にも徒らに終った。早春の朝日は家のうちに照り射して、人々の顔は喜びに輝いた。いづこよりか聞ゆる朗らかな鶯の声は時にとつての吉瑞であつた。

それより半月ばかりを経た長閑な日であつた。南陽は椽の陽あたりへ渋紙を仲べて袋から取り出した薬草を、一つ一つ丹念にひろげて乾しながら整理して居る所へ、一通の手紙が届いた。差出名を見ると、熊谷宿藤左衛門と律義な筆致で認めてあつた。文意は此の月の十五日の吉日を卜し、娘の腹帯の祝儀を行ふによつて、是非御来駕を願ひたいと云ふのであつた。

彼の妻も門弟も往くのを頻りに勧めたが、彼は『無駄なことをするものだ』と吐き出すやうに言つて、お上の御用多いのを口実にしてとうとう赴かずにしまつた。

忘れるともなく二十日ばかりを過ぎた。紅椿のばさりばさりと花ちる或日の夕ぐれ、また藤左衛門から書面が届いた。彼はそれに手を触れたゞけで開かうともしなかつた。

藤左衛門の娘は日足らずで死産をしたのであつた。