江戸幕府は、公娼たる吉原の遊女、準公娼として飯盛女といふ名目の下に黙認せる四宿(品川、千住、板橋、新宿)の遊女以外の売笑婦は悉く『隠売女』即ち私娼と認めて之を掃蕩撲滅するに勉め、且つその検索告訴の権を公娼遊廓たる吉原に附与し、之によつて検挙した私娼は直ちに吉原に下附し、無報酬で遊女を稼がせた。これを称して『奴奉公』といひ、その女を『奴』と唱へて吉原独占の利権の一となつてゐた。
江戸市内の私娼を吉原に交附したのは寛文三年十一月が最初で、吉原の告訴により築地の茶屋女を検挙し、その翌年五月にも法度を犯しに茶屋女を吉原に下げ渡した。これがため、芝、本庄、築地、高輪の茶屋七十余戸は寛文八年三月自発的に五百余人の私娼を率ひて吉原に転住し、堺町、伏見町に所謂散茶見世を営むことゝなつた。散茶とは客を振らないと云ふ意味で、私娼の本色の発揮である。この散茶見世が大に繁昌したので、それ迄の大夫格子見世も散茶風に改造することになつた位である。
天和三年には一年に二百六十余人の隠売女を検挙して吉原に下附し、降って享保三年には深川の船饅頭三人を捕へ奴とした。啻に私娼ばかりでなく、武家方にて御法度の不義を犯した婦女も亦た奴にしてその不貞を懲らしたことさへある。享保五年二月代官徳山五兵衛の手代林郷右衛門の妾とよが郷右衛門の家米の土谷伴蔵と姦通した料で吉原に引き渡された。『大岡政談』の中に出る万字屋(或は酉田屋)の遊女九重は、此の女である。伝ふる処に依ると、九重が町奉行大岡越前守忠相に『はてしなき浮世のはしに隅田川、沈れの末をいつ迄か汲む』といふ和歌を贈つて身の不遇を訴へたがため、それまでは無期限であつた奴の勤めの年期を三年に限定することゝなったと云ふ説もあるが、併し享保三年九月前記の深川の私娼三人を検挙した時、三年間吉原へ下附したことがあったから、奴の勤めの年期が三年に限られたのは九重より以前のことできる。さらに享保六年には横川町の私娼四人が検挙され、又た根津の私娼りんといへる者が愉死を仕損じていづれも奴奉公の身となった。
宝暦の頃までは町奉行は吉原の告発を待つて私娼を検挙したが、宝暦になってからは、町奉行の依田豊前守政治が自ら手を下して検挙した。それを世にはヶイドウ(怪動)といったものである。宝暦十年六月に上野山下の私娼ヶコロを捕へた時の日記に『白昼に捕り方参り、山下の女共数多召し捕はれ、段々の御詮議の処、或は人の女房、子持ちなど多く、誠の奉公人は四人なりしと。これを吉原に下し玉ひける。吉原にて斯かるおどけし者を奴に下されて有り難迷惑いたせしとなり』とある。人妻や子もちの女を下げ渡されて迷惑したといふ斯様な実例もあるが、併し吉原では私娼を捜査して町奉行に告訴すれば、召し捕はれて詮議の上、鐚一文の身代金をも払ふことなしにその私娼を廓内に収容することが出来て遊女稼ぎをさせ、よれより生ずる利益を収め得られる特権のあるがため、私娼の捜査に奔走し、奴の増加を謀ったことは無論である。処が寛政七年に至て松平定信は検挙した私娼を交附する際には吉原の名主に冥加入札をなさしめ、三年満期の後、引取人のない場合に相当に片づける費用や、勤め期間の事故病気等の費用として、この入札金を充当せしめるがため積立金として置くことに定めた。寛政七年の吉原規定証文の中に『隠売女の儀は、当所名主に御預け被遊候につき、その切手当致し召し連れ罷候上、会所に於て五町順番にて当番町の者人数を仕分け、当人名前を以て●取り致し、町毎に●に当り候者を引取り、その町の遊女屋へ是れ亦た順番に預り、入用は町入用或はその町限りの溜金を以て出金致来り候儀に有之候。もつとも吟味落著の節、女には三ヶ年当所へ被下置候へば、冥加入札にて女共引き取り候、右冥加金は遊女屋世話役の者に預け置き、溜金に致候云ヵ』とある。入札の女があると、吉原の世話人のやうなものが引受けて入札するので、美貌なものは四十両五十両でも引つ張り凧の有様であるが、不嫖緻なものや年の取った者は遊女に出せないがため、二三両位の端た金で受け取り三年間女郎屋の下働きをさせた。
天保十三年筒井伊賀守が、売淫せし女房、娘、其他の者十三人を吉原に下附した時、その栽状は『其方共先達て中より隠売女いたし、名住所不知の者を客にいたし、座敷代とて金子請け取り或は貰ひ受け、右金子分配いたしたる段、不埒につき三ヶ年吉原の遊女奉公人に被下候旨、慥かに相勤むべきものなり』とあつて、その女一人毎に入札の金高が当時の旧記中に挙げてあるが、これに依ると、上野二王門前の女房しげ(二十六歳)は金三十両三分八匁、京町の善兵衛娘きく(二十歳)は二十四両一分、伏見町の文七の妻しま(二十六歳)は十七両で入札せられその他十人共角町の松葉屋へ下げ渡された。
検挙した私娼を否応なしに入札金で吉原に交附し三ヶ年を期限として公娼にさせた江戸幕府の措置は今日より観ると、人権を無視した圧制酷薄の取扱であるが、併し当時に於ては私娼の掃蕩撲滅に利き目のあつた処置と謂ふべきである。又た之を今日の状態に徹しても、私娼を検挙して十日や二十日の拘留位に処したとこるが、つまりその場限りの処分で、拘留から解放せられると復たもや淫を売るから、とても掃蕩の目的を達することが出来ない。廃娼論のやかましい今日、こんな事を云ふと、怪しからぬ奴だと罷られるかも知れぬが、人権蹂躙の非難のあるにしても私娼を公娼に転化せしめた江戸政府の措置は、私娼の掃海撲滅上、慥かに有意義の手段たるを失はない。