昼見世と夜見世

昼見世とは遊郭の昼間営業、夜見世とは夜間営業の謂ひである。

元和十四年吉原遊廓の公許せられた時は、昼夜の営業が許されてるた。しかるに元吉原は僻陬の地方であつたから、日暮れ近くになると人通りが少くなつて、夜間の営業が思はしくないがため当時流行の女歌舞伎を夜間に催うして嫖客を迎へるやうにした。『落穂集』に這般の消息を記して『遊女町を御免被遊、茨ばかりの場所も拝領被仰付候故、四方に堀をほりて地形築き立て、家作を調べ、遊女共を数多集め置き候を以て昼の間は諸人参り候へども、その道筋左右共に茨ばらの中にて物騒に有之につき、日暮れにもなり候へば人の通りも無之候故、渡世も難仕候由にて、茨原町より願上候は、女歌舞伎を御免被下候やうにと願に候へば願の通り御免につき、町中に舞台をたて棧敷を構へ、躍り芝居を初め候につき、その頃は京大阪にも無之見物事と、貴賤共に入り込み、事の外繁昌し云々』とある。要するに元吉原は昼夜の営業でも、その実は昼間だけの賑ひであつたから、女歌舞伎の夜間開帳となつて、遊客を集めることにしたのである。『そゞる物語』に『吉原の昼狐』とあるは、昼間だけが賑かであつたことを示すものであるが、さて女歌舞伎を催うして遊客を惹き揚屋へ妓女を招かせるやうになつてからは、昼同様に夜間も賑はしくなつてきたのであつた。それは『東海道名所記』にも記せるが如く、京都の祇園丸山で、女歌舞伎が終ると傾城共を揚屋へ呼んで夜もすがら遊び、身分のある人達も品をかへ名をかへて通ひ遊んだと同じであつた。しかし、その結果は風紀紊乱の廉で、祇園丸山の女歌舞伎が禁止されたが如く、吉原の女歌舞伎も同一の運命に陥り、隨つて夜間の営業も禁止されたのである、それは寛永九年のことで、それ以来吉原は明暦三年に至るまで昼のみの世界となつた。『高屏風くだ物語』に『月こそ共に眺むるものならば如何ならん。此世の出もあらんに葛城の神にも似ざる契りにて、夜の逢瀬のかなはねば、是非なく日も早や桑楡にかゝれば宿も遠きになど云うて帰りぬ』とあつて、夜分の情趣に憧憬する嫖客の心理を描写し、又た『吉原徒然草』にも『日の暮るゝ程に積み重ねたる葛籠共の処せく揚屋に有りて客衆はいつ方へ行きつらん。見世く御簾たゝみ、戸へさし込みて夜の景色思ひやられてあはれなり』と昼ばかりの営業の果敢なさを語つてゐる。

吉原の夜間営業が禁止されたので、風呂屋女の流行となつた。当時の風呂屋には、娼婦が抱へられてあつて、夜分になると歌舞を奏し且つ肉を売つたのである。『落穂集』に夕刻頃より、女共は身仕度を調へ、風呂の上り場に用ひた格子の間に座敷をかまへ、金屏風などを引きまわして火を燃やし、衣服をあらため、三味線を鳴らし、小唄のやうのものを歌ひ客を集めたとある。風呂屋の中にも丹前風呂の如きは、勝山といふ美娼を抱へ歌舞伎を演ぜしめて大に人気を博した。『異本洞房語園』に風呂屋女勝山のことを記して『寛永の頃、流行りし女歌舞伎の真似などして、玉ぷちの編笠に裏つきの袴、木太刀の大小をさし、小唄をうたひ、台詞など云ふ。その立ち振舞美事にして風体至てゆゝしく見えしとなり』とある。此の如く、風呂屋女が女歌舞伎を演じて当時の人心に投じたがため夜間営業の禁止された吉原の遊女に代つて盛況を極めることゝなつたのである。寛永二十年版の『色音論』に『吉原や夜の通ひの止みければ風呂屋女は流行りもの』とある。されば吉原の娼家の中には風呂屋の繁昌を羨むの余り、その抱への公娼を風呂屋に托したものもあつたので、それが露見して厳刑に処せられたことさへある。

明暦三年吉原が三谷に移転すると共に、幕府は江戸町内に散在せし二百余軒の風呂屋に破壊してその抱への娼婦を吉原に収容せしめ再び昼夜の営業を吉原に許した。『只今昼ばかり商売致候得共、遠方へ被遺候代り、昼夜の商売御免の事』とある。『異本洞房語園』に『明暦二年十月九日、御奉行所へ吉原の年寄共を御召しあつて、只今までの場所御用地につき、所替へ仰付けられ候。但し代地のこと、本所のうちか、浅草日本堤か両所の内にて勝手次第御願ひ申上候へと被仰渡候云々』とあつて、明暦二年元吉原に所替を命ぜられ、日本堤の方面に移ることに決定した時、前記の如く昼夜の営業が許可せられたのである。処は明暦三年一月十八日に本郷の本妙寺より出火して吉原も類焼したので、所替のことは追つて沙汰せらるゝことなり、当分のうち三谷の仮宅にて営業するやうになつた時から再び夜間にも見世を張ることが出来たのである。『北女閭起源』に『江都の吉原のみ昼ばかりにて余国は昼夜なりしが、いつの頃にか昼は見世もやめて夜のみ商売となれり云々』とある。しかるに降つて享保九年の春、遊廓内で町人と武士とが争闘して血を流したことがあつたが為め再び夜間営業の禁止となつた。その時の落首にも『強いにも馴れゝば惚れる恋の癖、七つさがりの里のきぬきぬ』とあるやうに、午後の四時五時頃になると最早や別離を惜しまねばならないやうになつたが、併し程なく解禁の令が出て昼夜の営業が復た公認されるゝことゝなつたのである。

昼間の営業、所謂昼見世は九つ頃(正午)より始り、夕刻の七つ時(午後四時)を限りとし、夜間に営業、夜見世は六つ時(六時)より四つ時(十時)までとした。しかし、それはたゞ大門を閉鎖したゞけのことで、潜り口よりは矢張り遊客を出入せしめ、九つ時(十二時)に至て始めて引けの拍子木を打つたのであるから、実際は午後六時より十二時頃まで夜見世を張つたのである。

大阪の新町でも、一年間を通じて昼夜の営業が許されたのは享保二三年以来のことで、それ迄は夜間の営業が許されてゐても、一定の期限があつて、毎年三月の初より十月の末まで即ち八ヶ月間に限られてゐた。それとても延宝四年の頃からで、それ迄は昼間だけ営業が許されてゐたのである。『難波鑑』に『いにし延宝四年の歳、春三月の初より神無月の終日まで、とこしへに夜見世をかざるべしとの仰せを受けたり云々』とある。『色里三所帯』の大阪の巻に『新町の夜見名残りの頃より世は偽りの時雨女郎も木末さびしく云々』とあるは十月の末近くの頃になつたことを云つたものである。十一月より翌年の二月の末まで夜見世の許るされなかりた傍証としては『冥土の飛脚』の中にある『青編笠に紅葉して、炭火ほのめく夕べまで、思じおもひの恋ひ風や』といふ文句を挙げることが出来る。この文句は娼家の格子をのぞく遊客の青編笠に火鉢の炭火がさして紅紫の色のやうに映ゆる夕暮れ頃まで、思ひおもひに恋にうかれて遊客の新町にやつて来ることを優腕にうたつたものであるが、この『冥土の飛脚』の興行されたのは正徳元年のことで、且つ忠兵衛と梅川との大和の新口村に赴いたのが節季師走の頃であつたと云ふことから考へて見ると、十一月十二月の頃は夜見世が無かつたので、僅かに火鉢の炭火で格子の内にある女郎の顔を見せるやうに明りを取つたことゝ解せられる。ところが享保二三年頃になつて、十一月より二月に至るまでも夜見世が許されて、新町も亦た一年を通じて昼夜の営業となつた。それは享保三年作の『寿の門松』の文句の中に『難波がた、梅に名をとり松しげり、紅葉の錦畳さへや、夜見世を新たにお許しと、としや遅しと見にくるわ』とあるに徴して明かである。