男女の性器自体が禁厭呪巫の用に供されたものも亦た性器崇拝より起つた風習であることは固より明白なる事実である。科学的知識のなかつた古来未開の民族は生殖作用を奇異の現象として驚嘆し、随つて男女の性具には一種霊妙なる超自然的勢力の宿つてゐるものゝ様に想つて之を神秘視し、性器其者は勿論その形態に類似せる天然或は人工的の物象を崇拝し之に祈願するがごとき風習を生むに至つたのであるが、ことに豊業に従ふ民族に於ては殼物の生育繁茂と生殖作用とを同一視し、農産物の豊稔を欲望する思想より性器及びその類似物を崇拝し又た之を禁厭に利用することゝなるのは蓋し必然の帰裔てある。農業本位の我国に於ては殊に此の風習が顕著で、古来より種々の性的行事となつて土俗間に行はれた。例へば五殼の保護神として信仰せらるゝ稲荷神社の祭祀に、男の性器に擬せる鯲破前(かはらはぜ)を上下に動かし、女子の性器の象徴たる蚫苦本(あはびくほ)を叩いて舞つたといふことが『新猿楽記』に記るされてゐるが、なほ『雲州消息』には稲荷の祭には、一組の男女が仮りに老翁老媼に装ふて始めは互ひに艶語を言ひかはし、後には交会に及ぶことを記してある。此等はいづれも五穀の生育繁茂と人間の生殖作用とを同様に見た思想より出発したもので、即ち農産の豊饒を祈願するがために生殖動作をなすのであるが、此様な風習は近世に至る迄も僻陬の地方に行はれてゐた。例へば信州と三河との国境なる下伊那郡の島田といふ小村落には田遊びの神事として一組の男女が尉と姥とに仮装し、神楽殿に於て公衆環視の裡に交会所作をなしたといふが、此の如きは前述の稲荷祭に於ける性的行事と同じであり、又た『海録』に記する処に依れば、奥州の秋田地方にては、田植の終つた夜には雇人の男女に交歓せしめる風習があつたといふ。
以上概述した性的行事の他に、性器自体をば直接に禁厭の具に利用して除災招福を祈願する風習も行はれた。這般の事実に就て先づ第一に挙ぐべきことは、陰毛の禁厭に利用せられた事実である。『本草綱目』に蛇に咬まれた場合には、その人の口中に男子の陰毛二十条を含ませ、汁を噛めば毒は腸に入らずと云ひ、『千金方』には逆産を安産にせしめるには、夫の陰毛十四本を焼き研り猪膏に和して大豆大に丸めて嚥ましむべしとあるが併し此等は療病用といふよりも禁厭用と認むべきもので支那に於ては医事の方面にも陰毛を禁厭に利用したのである。我国に於て陰毛信仰の起つたのはいつ頃の時代からであるか不明であるが、文献に徴するに既に平安朝時代の頃より行はれてゐたことは明かである。『扶桑略記』に藤原道長が奈良の興福寺の宝庫に入つてその内に収容せる什物を観た時『和子の陰毛』といへる蔓のやうに長い陰毛を見せつけられたと云ふ記事が載つてある。これは女子の陰毛を禁厭の具にしたことを語るもので、この外にも信州の戸隠神社、飛騨国の水無瀬神社、近江竹生島の弁天堂、大和の石上神宮等には「七難のそゝ毛』と称せる長い女子の陰毛の祀られてあつたことが文献に見え、陰毛を神と祭り又は神宝とする風習は可なり古くより行はれた。今日に於ても下総国豊田郡石下村の東光寺の什物中に、七難のそゝ毛といふのがあり、又武蔵国南足立郡新田村には毛長明神と云つて女の長い陰毛を神体として祀れる神社があつたと伝へられてゐる。長い陰毛を七難のそゝ毛といつて之を祀つたのは恐くは、『仁王経』に謂ふ所の七福即生、七難叩滅を神仏に祈祷するに当り巫女がその陰毛を禁厭に利用したがために起つた名称であらうと言はれてゐる。七難とは地震、洪水、火鉉(火偏に玄)、鬼難、氷難、盗難、病難のことである。女子の性器自体を禁厭の具に利用したことも既に平安朝時代より行はれた。『砂石集』に和泉式部が貴船神社に参詣し、夫の藤原保昌から失つた愛を取り戻すべく巫女に祈願を頼みしに、巫女は神前に向つて自己の性器を露示して祈祷し、次で式部にも斯くせよと勧めたので、流石の淫婦なる式部も恥しさを感じて『千早振る、神の見る目を恥しや、身を思ふとて身をや棄つべき』といふ和歌を詠じて帰つたと云ふことが記るされてある。此様に性器其者を巫術化した民俗は近世に至るまでも残存し、薪炭に火気の燃え移らぬ際には、竈口に蹲踞して女陰を露出すると容易に火が移ると思はれてゐた俗信の如き、或は妓楼が来客を招かうとする時には、娼婦が人知れぬやうに四つ辻に出て、飯匙を以て着物の上から陰部をたゝくと客が必ず来ると云ふ俗信の如きも女子の性器を利用した禁厭の通俗化されたものに外ならない。その他、火災の時に女子が自分の手指を以て女陰の形を象徴して『○○○○○○』を連呼すれば直ぐに火が消滅すると云ふ俗信や、或は火災の場合に女の湯巻をかかげて之を振ると火が終熄するといふ俗信なども亦た前述の性器利用の巫術とその軌を一にするものである。男子の性器も亦た火災除けの巫術に利用せられたことは『南島雑記』にも見え、御神島嶽が大に噴火して燃え出した時三十五人の巫女が三十五本の男根を木で作つて七日七夜の御祈をしたと云ふ記事が載つてゐる。明治の初年までは浅草の年の市や大阪の今宮の戎神社の祭日には男根を模造した大きな張り抜き製の性器を招福除災の禁厭具として公然販売したもので、『守貞漫稿』にも『社頭にて張りぬき製の陰茎に金箔を置き或は弁がら塗り物を売る』とある。妓楼、待合茶屋、芸者の家などには、その神棚に男根模倣の性具を安置する風習が明治時代に入つた後にも依然として行はれた。