一(閨房の秘戯痴態を描ける性書)

閨房の秘戯痴態を描ける性書は必ずしも劣情挑発の目的ばかりでなく、禁厭の目的のためにも用ひられ、火災避けの守りとして婦女子が之を策笥の衣類に入れることや、又た往昔にては鎧櫃に入れて虫の喰はざる禁厭にしたことなどは周知の事実である。此様な風習は蓋し漢土より伝つたものらしく、『嬉游笑覧』及「梅園日記』に引用せる徐渭の『青藤路史』に『有二士人一、蔵書甚多、毎レ匱必置二春書一冊一、人問レ之。曰、聚レ書多惹レ火。此物能厭二火災一也云々』とあつて、書籍の火災にかゝらない様、書匱の内に性書を入れ置く風習や、又『物理小識』に『春宮圖、請二之籠底書一以レ之辟レ虫、乃厭レ之也』とあるが如く、虫の害を避けんがために匱に入れる風習が支那にあつたことは是等の記事によつて明かである。此の他、支那に於て性書が種々の禁厭に用ひられたことは『戒庵老人漫筆』に『青州城北、豊山下麦地古塚、得二原蛤殻一、毎殼中、各色二書樹木人物一、牽保形男女、交感横斜、俯仰上下、異態小レ可二具言一、正類二今之春書一、沈弁之得得二百枚回一、或是北朝時魔鎮物、為レ近』とあつて、魔除けのために裸体男女交歓の図を蛤の貝殻に書いて地中に埋めたことを記し、『獪園』には『有レ人、耕レ田、嘗堀二出古磁器一、(中略)千形万変、並是綵二絵男女秘戯之状一。嘗老相伝、是五胡乱レ華時、元魏北斉懼三其地有二王気一、痊レ此為二厭勝之具一』と見え、五胡の乱れの時、関洛周斉の間の地に王気の有るのを懼れたので元魏北斉が男女交会の状を書ける磁器を其地に痊めて禁厭の具となした由を記してある。清の嘉慶帝の時、江蘇巡撫の思寿は美人書の巨匠改綺に命じて一帖十二枚の性書を描かせ、之を『避火図』と命名して帝に上つた。これも火災避けの禁厭の具としたことはその名に徴して明かである。

我国に於ても夙に上古昨代より禁厭用のために性書の描かれたものらしいことは『嬉游笑覧』に引用せる「好古日録』の記事に徴して推想される。曰く『欽明帝御陵の辺の田間より出でたる石人四躯の図を出だす。一は一石三面、一は四面、一は三面、一は二面、後土人之を陵上に列す。俗呼んで七福神と称す。固より意義なし。亦其形何の意あることを知らず。或云、古昔石工の戯に鐫る処ならんと。或は然らんといへり。その図を見るに裸体にして春書の如し、三面四面に見ゆるものは交接の形なればなり。是れかの山東古墓中の春書の類にして殉に代へたるものと見ゆ』とある。併し殉に代へたと看倣すよりも寧ろ何かの禁厭用の具として男女交会の図を石面に書いたものと観るべきである。

我国の性書に男子の性器を誇張的に大きく書いてあるのは、私の見る処を以てするに肉感を唆るがためと云ふよりも、禁厭用として性具の形を大きく人工的に作製し之を魔除けにした風習に因んだものであらうと解したい。『古語拾遺』に、田畑の害虫たる蝗虫を駆除して将に枯れ果てやうとする苗を再び生育せしめる呪禁の一としし『男茎形』を立てたと云ふことが記るされてある。この『男茎形』なるものは蝗害を除く禁厭の具として作られた者で、而もそれを田地の上に立てたのであるから、恐しく大きく作られたことに違ひない。和蘭の学者ニユーウエンスフイスの著『ボルネオ旅行記』Niewwenhnis. Quer durch Borneo の中に、ボルネオ島人は悪魔除けのためとして誇張的に大きい性具を拵へてある人形を用ゆることが述べてある“Als weiter Abschreokungsmittel fur bose Geister dienen auch menschliche Phantasiegestanlten,dersn Gemitalen ubertriobenen gross dargestellt werden”。性書に男子の性器を過大に描くのは余程旧い時代からのことで『古今著聞集』に『おそくづの絵などを御覧も候へ、その物の寸法は分に過ぎて大に書きて候こと、いかでか実にはさは候べき云云』と見え、既に鳥羽僧正の在世時代の頃から斯く書いて居る事が説かれてある。禁厭用の為に恐しく大きい器具を作つた風習に倣つたのか、但しは男子の性器の形に類似せる大きな自然石を崇拝した風習に起源せるのか、両者いづれかの一であらうと、私は想像する。是を要するに性書も亦た性器崇拝の風に関係あるもので、必ずしも劣情挑発の目的ばかりに用ひられたので無い。太田南畝自蔵の『春宵秘戯図跋』に『宋有二春宵秘戲図一、此邦有二土佐氏書巻一、則其来此久矣、路史所謂厭勝之説亦或然云々』と記し、性書の禁厭に用ひられたことを肯定してゐる。