性欲の顛倒せる一女性の故殺未遂事件に関する旧記録より

自分は此のほど、久し振りに古るい『切抜帳』を筺底より取出してみた処が明治二十年代の頃、前田某といへる女が、其の主人なりし福田某の娘と同性の愛に陥りて遂に夫妻の契約をなし、其後、相手の移り変れるを怒つて遂に之を殺害せんと企てし一事件に関する当時の裁判記録の切り抜が偶然眼にとまつたので、多少の興味を感じ之を積読せしに、疑ひもなき先天性性欲顛倒症であつて、且つ其の事件の経過が、吾人医家の注目を要すべき点の少からざることを認めたから、茲に旧記録を書き改めて該事件の梗概を紹述することにした。蓋し女性の性欲顛倒は世人の予想せるよりも意外に多く、現に我国に於ても、女性間に同性の愛の随分盛んに行はれつゝあることは殆ど掩ふべからざる事実であつて、其中には相抱て情死せし如き者さへあるが、併し、其の由来及び真相に至ては、人生の暗黒面に属すること故、公然之を詳述したる文献及び記録に乏しいのは誠に已むを得ざる次第であるが、こゝに紹述せんとする前田某女の故殺未遂事件に関する記録に至ては、女性に於ける性欲顛倒の甚だ顕著なる一実倒として、其の真相が明かに看取し得られ、吾国に於ける女子の先犬性性欲顛倒に関して最も価値のある好資料と信じたので、往時の出来事たるに拘はらず、当時の旧記録を本文に改めてこゝに之を掲ぐることにしたのである。

該事件の主人公なる前田某女(以下Mと書す)は、東京の産で、年齢二十二歳の頃、始めて福田といへる家に下女奉公することゝなつた。同家の令嬢某女(以下Hと書す)は当時十六歳であつたが、Mが真心の限りをつくして万事親切に世話をしたので、Hも大に之を喜び、遂には何事もMでなければならぬ様になつて二人間の交情は日を経ると共に深くなり、遂に夫婦の契約をも結ぶまでになつて、たとひ将来Hが他に縁附くとも、Mは之に附添ひ、片時も傍を離れずと迄深く言ひ替はし、毎夜、人眼を忍びてHの寝所に入り込み同衾するに至つた。Mは元と松平下総守の家に奉公したことがあつたが、都合によりて解雇せられて後は、母親より屡々他へ縁附けよと勧められしも、非常に之をうるさがりて、結婚するを好まず、再び他ヘ奉公せんものと、一と先づ福田方の下女となり、他に善き口のある迄の腰掛けの積りで奉公したのであつたが、如何なる因縁か、其家の娘と互に思ひ思はるゝ深い中となつて、家の中でさへ、Hと手を引き合うて歩くやうな始末となつたので、娘の母親は何となく奇異な感じを起し、Mを嫌がるのみか、娘のHへの当りも悪くなつてきた。そこでMはHと相談の上、一時福田家を出でゝ他に奉公し、折を見て再び慇懃を通ぜんものと約束して、明治九年の秋、心ならずも福田家を辞し、某宮家に奉公することゝなつたか、併し其の後も毎日のやうに福田家に出入してゐた。Hは其後雉子橋外の女学校に通ふことゝなつたので其帰途には富家に立ち寄り、以前に変ることなく互に親密に交つてゐた。然るに某宮家は、明治十年の秋頃、青山へ引移らるゝことゝなり、またHは女子師範学校に転ずることゝなつたので、前の如くにMの許に立ち寄らぬ様になつたが、Mの方では、Hを慕ふ思ひの止む時なく、わざわざ師範学校の近所にHを待ち受け、打ち連れて話をしながら本所まで同行したり或は茶屋に入って話をしたこともあり、また屡々手紙のやり取りなどにて、相変らず愛し愛されてゐた。処が明治十三年の十月になつて、Mは其兄の死去したので、宮家を辞することゝなり、其後は福田家を絶えず訪ひしのみならず、同家に宿泊して屡々Hと同衾したることもあつた。此の如くにして互に深密なる交際をつゞけて居るうちに、年は明治十五年の十二月の末となり、Hは某陸軍少佐に嫁することゝなつた。然るにHは夫の少佐を嫌ひ、実家に帰らんとせしも、両親が之を許さぬので、Hは自殺せんと決心し、Mに向て共に死んで呉れよと言つた。元来両人の中は、若しも末に至て一処に暮らすことが出来ぬ時には、諸共に死なんとまで約束した程であつたからMもHの言に従ひ、死を共にせんと決心したが、併し再び思ひ直して、一策を考へ、少佐の家の下女某と相謀りてHをして狂者の態を装はしめ、明治十六年一月一日、少佐の留守に家を駆け出さして、途中にて之を待ち受け、実家へ送り届けた。Hは実家に帰りて後も猶ほ、狂者の風をなし、Mは看病を口実として、福田家に行き、万事の世話をなし、夜間には共に同衾して、楽しみを重ねてゐた。然るに一月二十六日になつて、Hの両親より爾後同家に出入するを禁じられたが、二人の交情は亳も変らず、互に手紙のやり取をなし、他人の家又は浅草観音などで、邂逅してゐた。併し当時は、最早や此くなりし上は、寧る死んで仕舞つたならばと互に相談した程であつたが、やがて其年の七月に至り、共に死ぬことは思ひ止まり、二人は一生亭主を持たず、末の末まで一処に暮らす方法を考へた結果、Hを宮内省に仕へしめ、MはHの許に使はるゝが最好の方法と思ひ、二人にていろいろ手続きを求め、Mは十七年の四月宮内省の某女官に仕へ、Hは宮仕には学問が大切ゆゑ、Mの世話にて跡見女学校に通学させることにしたが、宮内省に出づることは、六づかしいと極まり、Mは某女官の許にありて、Hの学業の成る日を楽みに待つてゐた。

然るに其年の十二月になりて、Mは母の病にて宮仕を辞し、手仕事をして、母を養ふことゝなつたが、女一人の痩腕にては、十分でないので、Hより毎月一円づゝの仕送りを得て、漸く其の日を送つてゐたが、やがて明治十九年になつて。またまた某家に仕へたが、病気のため、同年八月暇を取つて母の許に帰つた。然るに同年十月頃から、Hの様子が、何となく以前と変り、Mを疎外するやうに見えるので、十一月の末頃、MはHに面会し、愚痴のありだけを述べて、Hの意中を訊き質した処がHの言ふには、此頃お前のことで、妹には笑はれ、両親には責められて、心苦るしく思ひゐる処へ、又たまたお前にまで責められては大に困ると立腹したので、Mは、然らば予ねての約束を反古にする積りかと詰りしに、Hは色々事を分けて宥めるので、Mも漸く打ち解けHは一生他に嫁せずとの予ねての約束を守り居るものと思うて一と先づ立ち帰つた。

二十年の一月、母の死去せし後も、Mは相変らずと交通してゐた。二月の初頃、Hが跡見女学校より帰るを途中にて待ち受け、母死去の始末を語り聞かせしに、Hは、其の跡々の事をも間はず、又た慰めもしなかつたので、Mは如何にも合点行かずと思ひ、其後手紙にて認めて送りしに、やがてHより来た返事に、私の尋ねぬのは、知れて居る故との文句があつたので、知れて居るとは何が知れて居るのかと、打ち返して手紙をやつた。すると間もなくHより返事が来たが、最早や昔の如き親切気はなく、約束を守る考の無いことが分かつたので、これ迄Hの為めには種々心を苦しめたのに、今になつて、棄てられては、最早や此世に生きてゐる望なし、寧そ死ぬ方がましだと考へて、五月二十五日、其の決心の旨を手紙に認め、知人の許に出したこともあつた。六月二日に至り、Mは更にHに対して、若し不実の心が無いならば、どうか一処に死んで呉れとの意味の手紙を渡し、七日Hを学校よりの帰途に待ち受けて、返答を求めた処が、Hは、左様な事をして、世間の物笑ひになるは嫌だから、お前が死にたいならば独りで死ぬが可いと冷淡なる答をしたので、Mは其のあまりに不親切なるを怒り、それより従来の事情を手紙に詳記して、毎日Hの帰途を邀しては、之を事中に投げ入れた、これは前約の履行を求めんが為めであつたが、段々其家の様子やら、Hが両親の厄介になる心配を聞いては、妄りにHを責むるも、無理だと考へ直して、Hのことを思ひ切り、一人にて死なんと決心し、三月二十九日午後四時、剃刀とH宛の手紙一包を携へ、Hの家に忍び入りて、其部屋に入つて面会した。すると、Hは今妹が来るから、早く帰りくれよと云ふので、已むなく立ち去り、更に四月四日の早朝、再びHの部屋に忍び入つて、書置を其枕元に投げ置き、用意の剃刀にて咽喉を突かんとせしに、Hは驚いて飛び起き、母が来る故、此場は一と先づ帰つてくれと頼むので、已むを得ず本意を遂げずして其まゝ立ち帰つた。四月六日復たもや、Hを訪うた処が、Hは何の用事かと訊くので、用事かとは何ごとぞ、今まで私を欺いたのかと怨言をもらせしに、Hは決して欺いたのでは無いが、私の宅で斯ることをされては誠に迷惑だと言ふので、Mも其の思ひ過つたことを悔い、7月の朝、其家に赴きて、独 りで自殺せんとせしに、家人より諌止せられ、一時は改心する気になつたが、四月十八日頃より、又たもや自殺の心起り、之を制することの出来ぬまゝ、二十六日の午後八時過ぎ、福田家の表門より忍び入り、Hの部屋に入ると、Hは直ちに起き上つて、奥の方へ行きし間もなく、母親と共に出て来たり、Mの手を抑へて、何故戸を破つて忍び込みしか、と、Mを殴打し、直ちに巡査に引き渡した。此時MはHの部屋にて自殺する積であつたが、十三年間も心を苦しめ、深い約束ま でなせし中なりしに警察に引き渡すとは、薄情も甚だしい、死ぬなら寧そHと共に死んで呉れんと遂に最後の覚悟をきめ、六月三日午後九時、表門より忍び入り、庭の稲荷の社の後に身を隠し、十一時頃、座敷の縁側の方へ這ひ行き、Hへの手紙二十通、Hの写真及び自身の書置きを一包みにしたのを踏石の上に置き、それより再び椽の下に隠れて夜を明かし、四日午前十時、主人の出勤した後、Hが其部屋にて読書を始めたるを見済まして、用意の剃刀を左手に隠くし、之に右手を掛けたるまゝ、何卒一緒に死んで呉れと言ひながら、Hの背後にまわり、其喉を切らんと、右手に剃刀を取り、Hの右の肩より差出せし刹那、如何なる機みか、Hは仰に倒れ剃刀を握つたので、思はず其顔を見た処が、喉には創なく額に傷ありて夥しく出血してゐたので、これは仕捐じたりと、張りつめたる気も弛み、Hの手にかゝつて死ぬるが本望と、手に持たる剃刀を放して起き上らんとするHに抱きつき、どうか殺してくれと身を投げ出せしに、Hは大声を挙げてMを突き退け剃刀を棄てゝ、奥へ駆け入つたので、Mは椽の下に入り、剃刀にて喉を突いたか、うまく行かず、午前十一時其場を遁げ去つて亀井戸の方へ行き、それより築地の本願寺にある母の墓に詣て暇乞ひをなし、午後五時過永代橋の上より入水せんとせしも往来の頻繁である為め其隙なく、已むなく浜町の河岸に赴き、大橋に差しかゝる所を巡査に追ひかけられ、遂に捕縛せられた。

右はMの故殺事件の経過の概略であるが、十三年の永きに亙つて同性の愛をつゞけて居たのは、誠に珍らしい現象である。尚ほ之に関する記録中、Mに対する審問の部分を見るに、彼女の性欲が先天的に顛倒してゐたことが益々明白である。

「Hと夫婦の約束を為せしと云ふが、全体誰が亭主となるにや」

「Hを亭主としたり」

「然らば、何か夫婦らしいことを致せしか」

「左様」

「何か道具でも用ゆるか」

「左にあらず」

「然らば、Hか汝の中、他人と異りし所があるか」

「別に通常人と異つてゐる所なし」

「然らば、如何にして情交を通ずるか」

「互に手術を用ゆるなり」

「それで快味を感ずるか」

「Hも妙なものだと云ひたり」

「其事は汝が教へたるか」

「自分も素より左様なことを知らざりしが、両人戯れに致したることが自然にかうじたるなり」

「かゝる約束が汝とHとの間にあることは、福田夫婦は知り居るか」

「ある時、母親がHに向ひ、お前とMとの素振りは、恰かも男女の間のやうなりとて咎められたることあり、又た本年三月二十一日頃、腹立ち紛れにHに向ひ、かく迄不実になりしならば、これ迄のことを御両親に知らすと申し、Hより送りし手紙の中にも、殊に妙な文句あり、または閨中の秘事など認めあるを数通取り出して之を玄関より投込みたれば、両親の手に入り、承知されたりと存ず」

「汝はこれ迄男の肌に触れしことなきや」

「左様なし」

「男の肌に触れんとも思はざりしか」

「自分は年のゆかぬ時より、亭主を持つは面倒なりとの考へありしが、Hと右の如き約束をせし以来は男を思ふ心は一点もなく、唯一心にHのことのみ思ひ、宮様へ御奉公中拠なき義理にて縁談を申込まれ、已むを得ず、見合ひだけしたれども、唯先方をひやかす心にて参りたるのみ、其後にて、Hと其事を話して笑ひたり」

是に由て之を観れば、Mは通常の女子性欲顛倒者に反し、自身を女子の位置となし、対手を男子の位置となして、異常の快感を求めたものである。彼女は当時三十四歳で、仕立職を業としてゐた。十八歳の頃始めて月経を通じたが一回のみにて閉止し、二十二歳の頃より再び経血を見、爾来順潮なりしも、月経期間には下腹部の微痛があり、又た福田家に奉公中何か心配事があつて一時精神異常を発し、医療に由て全治したとのことである。

右の記録は、蓋し吾国に於ける女子先天性性欲顛倒に関する文献中最も顕著なる一事例と云ふべきもので、故殺未遂事件を生じたが為め、始めて其真相及び経過が明白になつたのである。若し同性の愛に陥れる女性の裏面を一々調査したならば、恐らくは此の記録にあるが如き事実を沢山発見することが出来るであらうが、併し其の大部分は全く暗黒裡に葬られて了つて居るから、特に上記の記録を古い『切抜帳』より抄出して、同学者を始め教育家経世家の参考の資に供することにしたのである。