三(我国では、古来、奥女中、宮女、尼僧等)

我国では、古来、奥女中、宮女、尼僧等の如き異性に接するの機会なき女性間に行はれたが、併し世間には之を知るものが尠なかつた。然るに明治時代に入つて、監獄、寄宿舎、驅徴院等の如き女性の集合する場所に盛んに行はるゝやうになりてより、世間の人も之を熟知して何時とはなしに「トイチハイチ」「オメサン」とか云ふやうな名称を附することになつた。

同性愛に陥つた女性間には殆ど夫婦の如き関係を結ぶやうになつて、其の愛情の熱烈なること全く異性に対するのと異つた処なく、嫉妬のために相手を傷つけたり、自殺を企てたりすることもあれば、又た生死を倶にせんとする熱情の結果、相擁して情死することもある。明治二十年頃のことであるが、前田某といへる女が、嘗て其の奉公してゐた主家の娘を殺さんとし、剃刀を以て切りつけた処が、其目的を達すること能はずして捕縛せられ、裁判官の糺問に対して、生来男子を好まず、ある官吏の家に下女として仕ふるやうになつてから、主人の娘と情を通じ、衾を同うして寝たことが屡々であつたが、其後、主家を辞してからも、以前の関係をつゞけてゐた処、漸く相手の女が己を疎んずるやうになつたので、非常に立腹し遂に殺意を生ずるに至つたといふことを自白した。当時江口襄氏は此の女を診して色情顛倒症と鑑定された。又た、鈴木券太郎氏の著『犯罪論及び女性犯人』中に、群馬県に於て一酌婦が女優を弄せしことを挙げ、又た、福田秀子の著した『妾の半生涯』中の記事を引用して、島津お政の屡々芸者狂ひをなし、其の望みを達せんとて数万円の金を盜んだといふことを記してある。又た嘗て都新聞の紙上に掲載せし『お鯉物語』には、中村小時といへる洋妾上りの女が、柳橋や新橋で芸者を弄し、相手の女をたらして金を絞り取り、故桂公の寵妾たりしお鯉の如きも、其の芸妓時代に此の女に関係して丸裸にせられたといふことや、又た、小静、兼吉といへる芸妓も此女に入れ揚げたと云ふことを載せてあつた。

相愛の女同志が情死することのあるのは別に珍らしいことでも無いが、私の記憶してゐる顕著の実例としては、嘗て下野足利の人で渡辺某といふ者の娘お末が、上総屋の女のお花と死を同うし、又た芝浜松町某の娘おもとが女髪結と心中したことがあつて、当時世間の評制となつた。又た東京では曽根貞子、岡田玉江といへる二人の女学生が相抱いて親不知の激浪に投じ心中したことをも記憶してゐる。