女性間に於ける同性愛は、非常に古い歴史のあるもので、希臘の古代にては男色の大に行はれた如くに、貴婦人社会に於ても盛んに行はれた。洋語では女性間に行はるゝ同性愛を「トリバヂー」Tribadieといひ、希臘古代に於て其の大に流行したことは、マルチアールが一の諷刺詩を作つて之を詠じたのを見ても分る。希臘古代の女性の中、同性愛で今日まで知られてゐるのは、女詩人サツフォーであつて、「サツフォー」主義Saphismusといへる一種の名まても出来てゐる。而して羅馬時代に至りても引き続いて行はれ、ことに其の帝国時代には女性間に非常に蔓延したが更に中世紀時代から今日に至ても欧米諸国には依然として女性間、就中、貴婦人社会に行はれてゐる。歴史上に有名なる婦人の中で、此の同性愛に耽つたものは、上記の女詩人のサッフォーの外に、ハインリツヒ第八世の妃カザリナ、ホーワルト(千五百四十二年死刑に処せられたる第五番目の王妃)及び露国の女帝カザリン第二世等である。欧米では詩人や小説家が女性間に於ける同性愛を材料としたことが多く。ことに仏国にては、ヂテロといへる文士が其の小説La religuieuse に於て尼僧間の同性愛を描写してより、此種の小説はいろいろ趣向をかへて刊行せられたが、其の中にも、ゾラのNanaや。ゴーチエのMademoiselle de Mnupiu等の中には巧に之を描写してある。愉も吾国で男色の流行した江戸時代に、之を材料とした種々の稗史小説の出版せりれたのと同じである。
女性間に於ける同性愛は現今欧米に蔓延してゐる許りで無く、未開野蛮の民族間にも盛んに行はれてゐる。現に南洋の婦人間には此の風があり、又た男色の行はるゝこと多き南米に於ても蔓延してゐる。西印度の或地方には一生涯を通じて男子に接せざる女性があつて、一切婦人のなすべき業を擲ち、男子の行為を摸擬して其の頭髪までをも短く截り、その家には一人の少女を使用して之と暮らしてゐるが如きものさへある。埃及にも頗る同性愛が盛んに行はれ、貴婦人にして相愛の女友を有つてゐない者は殆ど無いと云つて可い程である。東印度にては女性間に於ける同性愛は先づ稀有であるさうで、印度の大監獄長バツシヤナンの語る処では、未だ嘗て監獄内に行はれたことを見ないとのことである(エリス著、「性感」 Ellis, Geschlechtsgefuehl に拠る)。
支那では漢時代に於て宮女の相共に夫婦となるのを対食と名づけ、前の清朝に於ても此の如きものを菜戸と云つた。『漢式故事』に、皇后寵衰へて騙姑甚だし。女巫装服なるもの言ふ。能く帝の意を回へさんと。宜夜祭祀し、薬を合せて后に服せしむ。女巫男子の衣を着、冠嘖帯素し、皇后と与に寝、相愛夫婦の如し。上聞て巫と后と女にして男淫せるを究治し皆罪に伏す云々とあり。又た、王阨亭の『池北偶談』にも、山東済亭に、四十有余歳の婦人、寡居数年にして忽ち陽道を生じ、日々其の子婦と狎る云々とある。我国にては『後撰集』の中に『定めたる女も侍らず、独り臥しをのみすと、女友達の許より戯れて侍りければ、読人不知』とあつて『いづこにも身をば離れぬ影しあれば、臥す床ごとに独りやは寝る』とあるが、これに我国に於ける女性同志の愛の古るい文献の一であらう。『鈴鹿家記』の中に女小性の語あるに徴すれば、室町時代の初期には、宮女の同性愛に使用したる女小性のあつたものらしい。