異常多産婦考

女性が十五歳にして思春期に達し四十五歳にして生殖能力の消失する更年期に達するものとすれば、その生殖期限は正に三十年である。そして此の三十年間に生産すべき子供の数は幾詐かといふに、結婦後直ちに妊娠するものと仮定し、且つ妊娠、分娩、産褥、授乳に要する時日を十五ヶ月乃至二年と見積る時は、三十年間に十五人乃至十六人の子供を生む勘定で、この最大限の児数は所謂『婦人の常態生産」Das normale produkt der Frau と称して可からう。併し実際上この最大限の児数を見ることは甚だ稀有で、キツシュの説に依るに、一夫婦間に四乃至五人の子供を挙げるのが平均数であるといふ。去る大正十四年大阪朝日新聞社の調査した全国多産統計を見ても、産児総数千三百〇三人の中、十七人の子供を産んだ夫婦は四組、十六人の子を産んだ夫婦は一組、十五人の子供を産んだ夫婦が七組あるに過ぎない(大阪朝日新聞一万五子四百七十八号所載に拠る)。

さりながら生殖年限が三十年以上に亙り或は双胎、三胎等を産んだものに於ては前記の『常態生産」よりも以上に多くの小児を生むことがある。プルダツハBurdachはその著者の生理学の中に、一婦人が二十六回も分娩して六十九人の子供を生んだことを記したが、その中、六回は双胎七回は三胎、四回は四胎であったと云ふ、又たガイスレルGeisolerの記述せし処に依れば、マリー、アウスチンといへる婦人は三十三年間の結婚生活中に、四十四人の子供を生んだと云ひ、その中十三回は双胎、六回は三胎であったとのことである。又たザイデル Seidel二十二人の子供を有せる婦人に就て記述した(Mann und Weib. Bd.1)。

独逸皇帝アルブレヒト一世の皇后は二十一人の皇子を生んだので世に名高かったが、前記のブルダッハやガイスレルの記述した多産婦に比すれば物の数でない。それからキツシユ Kischの列挙せし多産婦を見ると、千九百〇一年の頃、独逸伯林に於て四十一歳の婦人で二十三人の子を有つてゐたものがあり、又た四十、四十三、及四十六歳の婦人で、各自二十一人の子を生んだものもあったケレシー Korcai はブダペストニ於て、十五人及それ以上の子供を生んだものが三百人、二十一人の子供を生んだものが七人、各自二十二、二十三、二十四人の子供を生んだものが、三人ありしことを挙げた。なほ同じくブタペストの住民で結婚後四十三年間に三十二人の子供を生んだ婦人があり、又た千九百〇二年の頃、ベーメンに於て二十四人の子の母があつたといふ。

スチーダ Stieda は一の婦人は二十一人、他の一婦人は二十三人の子供を有せることを記述した(Kisch. Das Geschlechtsleben Weibes )

処が墺国維納の医家ベルゲル Bergerは前記の多産婦よりも尚より以上に沢山の子を生んだ一婦人に就て報告したことがある。それは四十五歳の婦人で、自身も双生児であるが、結婚以来三十回妊娠し、三十六人の子供を生み、その中二十八人に生産児であったが、三十回の分娩中、四回は双胎、一回は三胎であつた。この婦人は十歳の頃より既に月経が初まり、妊娠中の外は殆ど絶えず月経があったそうである。思ふにこの婦人の卵巣は特に卵子に富み且つ卵子は普通四週間毎に排出する定型を破つて絶えず発育成熟し排出したがため殆ど常に月経があり異常に多く妊娠したのであらう。

これは或る新間で読んだ話であるが、米国のウイスコンシン州のフランク、スコツトと云へる婦人は五歳末満の子供十三人を連れてシカゴ行きの汽車に乗つてるたので、車掌も大に驚いた。この女は双生児二組、三つ児五組合計十九人の子供の母親で、汽車に乗ってゐた子供はその一部であった。又たいつぞや巴里の大学病院で診察を受けた一婦人は五十六歳で、その時二十八回目の妊娠であったと云ふ。