子おろしを職業とした者には非医者もあれば医者もありました。『好色五人女』の中に『この女、元は夫婦池の小さんとて、子おろしなりしが、此身すぎ世にあらためられて今はむごき事を止めて素麺など引きて一日暮しの命云々』とあるのや又『浮世栄華一代男』の中に『腹取りの上手と申上ぐれば、こなたへと常の挨拶とあるも子おろしなり』とあるのは、非医者の子おるしです。それから『胸算用』に『おれの伯母は子おろし屋』とあるのも非医者でせう。寛文七年の頃までは自宅の軒頭に公然子おろしの看板を掲げた者もあった位でしたが、同年五月二日に至て之を禁じました。『子おろしの看板出し置き商売致候者布之候はゞ堅く無用可仕由被仰付候間、町中無用に可致候云々』といふ町触書が則ちこれです。これより先き正保年代に『子をおろす術を禁ず』といふ布令が出ましたけれども、それが厳行されなかたことは、右の町触書の出たのによっても判ります。処で自宅の軒頭に子おろし看板を掲げることが禁止された後になっても、子おろし業者であることを、それと無く暗示する看版や張り紙などを軒頭或は生垣に掲げる者もありました。『読艶大鑑』に『生垣のうちに、張紙万葉書きにして屋々様於呆志薬とありしも可笑しく』あり又『看板考』に依れば、子持ち縞に錠を染め出した暖簾を軒頭に下げて子おろしを暗示した者もありました。医者では女医者といふ名義で子おろしを行ったものが、既に延宝時代の頃からありました。それはその頃の触れ書に『市中女医者と唱へ候者有之、血の道療治正しく致し候へば不苦候へども、その中には妊娠の者の頼みに応じ、預りて堕胎いたさせ候類も有之哉に相聞へ不屈の至りに候云々』とあるに徹して明かであります。併し堕胎を本業とする女医の大に繁昌するやうになったのは、享保以来の事で、婦人科産科を専門とする中条流のものでありましたがため世間では此種の女医をば中条流といひました。元来中条流といふのは、豊臣秀吉の臣下であった中条帯刀といふ婦人科医の流派のことであります。『皇国名医伝』に記する所に依ると、中条家は吉益家と共に外科と婦人科とを兼ねたもので、『中古治創家有二血類七気之称一以二産亦属一レ血併治レ之、吉益中条二氏其最顕著也云々』とあります。堕胎専門の女医を中条流と称するやうになったのは宝暦以来のことで、即ち此の年代以降の川柳を見ると、此種の女医の代名詞として常に中条或は仲条と呼んで居ります。