江戸時代に於て民衆間に堕胎の大に行はれた原因には三つあると思ひます。一は享楽的淫風の盛んなことで、男子に於ては遊里が享楽の世界となり、女子に於ては劇場を主なる享楽の天地として不純の歓楽を追求しました。『好色五人女の中に、大阪の女の浮気沙汰を叙して『一切の女は移り気なるものにして、うまき色話にうつゝを抜かし、道頓堀の作り狂言を誠と見なし、いつともなく心を乱し、天王寺の桜のちり前、藤の棚の盛りに、うるわしき男に浮かれ、帰りては一代養ふ男を嫌ひぬ』とあります。元来江戸時代の初期は戦国時代の余風を承けて町民も衣服帯刀など凡て武士の風を学び、商家の女も武士の妻妾を模範とせる堅気な習はしでありましたが、泰平のうち続くに従つて商工業が勃興し生活程度の進んできたがため、勢ひ奢侈享楽の風が生じ淫靡驕蕩に陥るやうになつて、それが年を遂ふて益々甚しくなり、武士を不粋と嘲り野暮と嘲るやうになつたのでいつしか武士も町民の風を真似、江戸昨代初期の質朴の風は殆ど地に墜つて、デカダン風が一世を席巻するに至ったのであります。『不義はお家の御法度』と唱へられてゐたのにも拘はらず、私通姦通の盛んに社会の裏面に行はれたのも当然の次第で、随つて因果の胤を宿した婦人間に堕胎の悪風の大に行はるゝ様になりましたのも亦た自然の数です。第二の原因は、江戸時代では儒教道徳の人心を支配して女子の貞操を極度に尊重し、未婚者及寡婦の異性に接することを不義密通と称して道徳上にも又た法律上にも之を厳禁し、『不孝不義の輩有之候はゞ早速申し上ぐべく候事』と云ふが如き布令までも出し、私通した者あれば、発見次第官府に親告せよとまで命令した位でしたから、如何に淫靡の空気の漲つた江戸時代でも不義を行ったことを隠蔽せねばならなかったことが堕胎の大いに行はれた原因の一であります。宝永版の『婦人寿草』にも私通して妊娠した者は必ず子おろし薬を内用するので命を失ふものが多いと記してありますのは実に這般の消息を語つたものであります。江戸幕府が倫常を重んで不義密通を厳重に取り締つた精神其者は固より嘉みすべきことですが、併し、之に対する道徳的及社会的制裁があまりに苛察に過ぎたがため、却て堕胎の悪風を助長せしめるやうな結果となり、所謂牛角の曲れるのを矯めんとして却て牛を殺すが如き意外の結果を招いたのであります。第三の原因は、都市にては医術も発達し、殊に子おろしを専門にする女医が多く、江戸にては特に中条流と称する堕胎医が公然の秘密に営業して堕胎を企つるには容易で且つ便利でありましたのと、又一面には都会の人は比較的に教養があり道徳的観念も発達して殺児の惨に忍びなかったことも堕胎の大に行はれた原因の一であります。