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江戸幕府は堕胎に対してしばしば禁令を出し遂に天保十三年に至て一定の刑目を規定したといふ点から見ますと、大に之を取締ってゐるやうですが、併し私の観る処に依りますと、江戸時代は御承知の如く諸外国より国を閉鎖した自給自足の時代でしたから、人口の増加を歓迎しなかったのみならず、亦た一家の経済上子供を養育し難いものは産児を制限しても可いと云ふ思想が冥々裡に行はれてゐましたから、堕胎に対する刑罰が長らく制定せられず、母体を傷害致死しない限り、大目に看てゐたやうに思はれるのであります。明和七年版の『身体柱立』の中に『身上軽く、家督の無きものは妻子無用たるべきものなり』と記して産児制限の必要を唱へてゐます。明和七年と申せば、西暦の千七百七十年に当り、有名なるマルサスの人口論の公にされた年代よりも数十年以前のことであります。又著者不明の『豊年税書』にも、身分に過ぎて子供の多いものや、分限過ぎた人数のものは僉議の上能く警戒せよと云って居ります。此の如く江戸時代には生活の安定のために産児を制限するの要あることが認められてゐた許りでなく、実際上にもその必要がありましたので、就中、家禄の一定し領分の固定せる武士階級におきましては、妄りに子供を産んでは堪まりませんから、生活の安定上産児制限を行つたことゝ思はれます。それは安永年代刊行の『屠龍工随筆』に『一万石の地は一万石、十万石の地は十万石にして尺寸も増すことなし、あゝ今の世、家々の名君膳部を減じ、内寵を止め、身をつづめ、倹を守らるゝといへども余分なきは何ぞや、年々に家の子多くなる故ならん』と記し、暗に産児制限が武士階級に必要なる所以を認めて居ります。此様な次第ですから、堕胎が江戸時代に於て大目に看過されたのも思へば不思議でありません。