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江戸幕府が堕胎を罪悪と認めて正保以来屡々布令を発して之を禁止したことは君の述べられた通りですが、併し、堕胎は隠密に行はれる犯罪であり、又た警察制度の甚だ不完全であってその犯跡を検挙することが不可能の場合も頗る多かつたので、唯た不義密通のために妊娠して子おろしを企て母体の生命にまで危険を及ぼしたといふ犯跡検挙の可能なる場合に限り、その情状に応じて町奉行が随意に処刑したのですから、刑の裁量に一定の方針がなく、その間に甚しい軽重の別のあつたも自然の数であります、併し幕府の当局者も堕胎に対する一定の刑目を制定するの必要を感じ、文政八年に至て評定所の議に上ったこともありましたが、遂に天保十三年に至て『堕胎相頼み候者竝びに価を取り頼みを受けて堕胎いたさせ候者も江戸十里四方追故』といふことに規定したのであります。江戸十里四方追放には軽重の別があって、軽追故は、京、大阪、東海道筋、日光街道筋及甲府を御構ひ場とし、重追放は、この他、堺、伏見、奈良、長崎、木曽路筋、甲斐、水戸、名古屋、和歌山を御構ひ場としてあります。