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子供の生命の与奪は親の権利であると云ふ慨念が堕胎や嬰児殺を黙認して之を悪徳とも思はなかつたことゝ解せられます。併し堕胎の悪風が余りに甚しく行はれるので、遂に為政家は法令を以て之を禁止することになりました。それは江戸時代の正保年代(第三代将軍家光の治世)でありまして、『子をおろす術を禁ず』との布令を出したのが、堕胎禁止の最初であります。次で第四代将軍家綱の治世寛文年代には、子おろしの看板を軒頭に掲ぐるを禁じ、更に第五代将軍綱吉の治世の延宝年代には、市中の女医に対して堕胎を行ふを禁じました。併し中古時代より盛んに行はれて居る堕胎の悪風は容易に遏絶することなく、法網を潜つて秘密裡に依然行はれてゐたのであります。それには江戸時代の天保の末期頃まで堕胎に対する刑罰の規定の無かつたことも多少の関係があるやうに思はれます。御承知の如く江戸時代の刑法たる『御定め百箇条』には苛察熕瑣と云つて可い程、いろいろの犯罪に対する刑罰が細かに分類され、窃盜の如き微罪でも金十両以上を盜んだものは死罪に処する程の厳刑でありましたにも拘はらず、堕胎のみには之に対する刑目の条文もなかつたのであります。それ故、堕胎のために婦人の傷害致死した事件の発覚した場合にも、町奉行の白由裁量で処刑しましたがため、その刑罰には甚しい差等がありました。即ち牛鎖、籠舎のやうな軽い刑に処せられたやうなものもあれば、又た追放、遠島の重刑に処したこともあります。例之ば、貞享三年堕胎薬を相手の女に内服させて傷産せしめたものが死罪に処せられて居るのに、元禄二年には私通して堕胎したものを流刑に処して居り、安永六年には薬を与へて女を致死せしめた男を追放に処して居るといふやうに、刑の裁量に一定の準縄がなかったのであります。