堕胎は江戸時代に盛んに行はれた悪風の一でありますが、併しその起源に淅りますと余程旧るいもので、王朝時代の頃から随分盛んに行はれたやうであります。その文献を茲に挙げますと、『今昔物語』巻の十二に『播磨国に飾磨の郡書写の山と云ふ処に、性空上人といふ人ありけり。本京の人なり。従四位下橘の朝臣善根といへる人の子なり。母は源の氏 其母諸々の子を生むに難産にて平かならず。されば此の上人を懐胎せるに流産の術を求めて毒を服すといへども、その験なくて遂に平かに生れけり』とありまして、難産の苦を免れんがために堕胎を企てた事実が記るされてあり、又た『源順集』には、堕胎に関する和歌が載せられてあります。それは、『男の、ひとの国にまかる程に、子をおるしけるせのもとに』と題して『たらちをの、帰る程をも知らずして、如何で棄てゝしかりのかひ子ぞ』と詠んだ歌であります。これは如何なる動機で堕胎したか明白でありません。享楽のために母となるのを嫌つたが為であるか或は私通隠蔽のために行つたのであるか、両者の中、いづれかその一つが堕胎の動機であつたらうと思はれます、